「死生学」という言葉が嫌いなわけ

きょうは穏やかないい天気です。
久しぶりです。
きのうなど冬に戻っていましたから。
何か昨年の夏から寒暖が激しいです。
私の心模様そっくりです。

最近気になるのが
グリーフワークをグリーフケアの意味で使っている例が多いこと。
もう一つはグリーフケアを
悲嘆を癒してあげる
という意味で理解している人の多いこと。

あと、グリーフをワンパターンで捉える人が多いこと。
またグリーフケアが流行ると死別を体験した人をあるがまま見ようとしないで、かわいそうな人、何かしてあげなくちゃ、
となり、その結果
遺族は悲しんでいることを装わなくてはいけない
という圧迫感を感じることがあること。

グリーフは個別、固有だということは
死者と遺された人との関係が固有だからである。
その関係も知らずグリーフを無理して解釈しなさんな。
邪魔しないだけ。

キューブラ・ロスさんの5段階は、正確にはがんで助からないと告知された人の心の動きを必ず辿るプロセスではなく、パターン化して見せたもの。
それを死別の遺族の心の動きに応用したもの
(私もそれをしています)
でも、死の原因はさまざまです。
突然の死からがんなどの予期された死、さらに多くなったのが高齢者の死
さらに死者と遺された者の間の生活史があるわけです。

グリーフをプロセスではなく局面として捉えるのが最近の動きです。
つまり死の原因、その人との関係のいかんによって固有性がありますし、その進み方もさまざまです。
グリーフワークは教えて進むものでもないし、その人そのものが辿るほかなく、それ自体が意味あるもので
「ケアしてあげたい」という気持ちは優しいが、ときにうざったいものです。
でも自分でなんでも解決がつくということも言い切れないし。
そのとき秘密で相談にのってくれる人がいる、というのは大切なことでしょう。

これは本にも書いたケースですが
子を亡くした母親が買い物に出かけたら、知っている人が「外に出られるくらい元気になっとの」「ほんとうに残念だったわね」「でも、まだお子さんがいるからいいわね」とか、何だかんだとその母親を気遣って声をかけてきた。
やっと買い物から帰った母親は人に声を掛けられる恐怖でしばらく引きこもり状態になった。

どう言ったらいいか、ではなくどんな声でも彼女は耳にしたくなくなったのだろう。
しかも自分と子の関係なのにそれをわかったような顔して声をかけてくるのはたまらなかったようだ。

その人がどんな形であれ、子を亡くした事実を受け止めるようにならなければどうにもならない。そしてその傷は何かの機会で傷口を広げるかもしれない。

歳を重ねるということはさまざまな死を体験することが多くなることである。
肉親を始め親しい友人の死を含め
解決ということではない。
でも一時期の生々しい感情はいつのまにか和解し、沈殿し、生きている者よりも愛しく感じることがある。
自分もまた死ぬ、ということを当然のように思っている。
先に逝った者という感じである。
こんな偉そうなことを言っているが、死別の直後は息子が呆れるほど自分自身をコントロールできない状態になったのだ。
次にはそれぞれ違っていた。
今度はどうなるかまったくわからない。

私は体験も多いし、死ということを年中考えている人間だが、
次の体験での自分を予測することはできない。
勉強したからいい死を迎えられるわけではない。
勉強したから死別をよく体験できるわけではない。

それぞれ違っているのだから
わかったような顔してはならない。

また、嫌いな言葉がある。
「死を考えることはよく生きるため」
これと類似の死を学ぶことの重要性を生に価値をおいていう人がやたら多い。
よりよく生きるのにつながらなければ死は無意味なのか。
何か価値づけないと死を考えられないのか?

死というのは抽象的なものではなく、誰のどういう死、ということであり、その人と私の関係において問題となるのだ。
こっちには偶発的と思えるようなものもある。
そこで生と無理やりくっつけるならば、いつ死んでもいいように身の回りきれいにしておこう、とか、深酒して風呂に入るのはやめよう、とか、ろくなことが出てこない。

死をそうして価値づけるのは何の意味がないのだ。
死そのものが迫ってくるのだ。
そんなのどう準備できるというのか。

死を見くびらないことだ。

私が「死生学」という言葉が唾棄するほどきらいなのは、何か変な死の意味づけを見るからだ。
そうすればするほど死は自分から遠ざかるのではなかろうか。

私の歳若い尊敬するT君が「グリーフ=死別の悲嘆」とすることに異議を唱えて「グリーフは死別の喪失によっておこるものではない」と言っている。

T君の言うことはその通りである。死別という愛する者の喪失はときに酷なものでsadとかsorrowとかの言葉で表すこともあるが、もっと厳しいということでgrief を使う。
手元の英和辞書では
「(死別、後悔、絶望などによる)深い悲しみ、悲嘆、悲痛」と説明されている。

死別の悲嘆をsadやsorrowで表現することも日常にはよくあることだ。
私もよく「グリーフ(=死別の悲嘆)」と表現しているから、T君が怒っているのは私の言葉遣いに対してかもしれない。
私は戦後派一期生だから「戦後的発想」と言われても、だからどうしたの、となる。

我々がグリーフを用いるのは「死別の悲嘆」について語ることなので、そういう暗黙の了解を促すため、「グリーフ(=死別の悲嘆)」と書く。専門用語のようなものである。そのくらいに考えてもらわないと議論が面倒くさくなる。
私は面倒臭がりだから「グリーフ(grief)」をラテン語にさかのぼって書くつもりは毛頭ないし、griefという言葉の意味合いも長い歴史の中で使われてきて今あるのだ。
日本語の「悲嘆」だって死別以外に使うし、「悲しみ嘆く」というのだからよほど強い、深い傷を表すというだけである。それ以上の意味はない。
私は「グリーフ」を「死別の悲嘆」以外の意味では使わないということでケースを限定しているのが「グリーフ(死別の悲嘆)」という書き方なのだ。それ以上の意味はない。
彼の言っていることはある意味正当だが、死別がもたらすものを論じているのに死別に限定して使うというのは垣根になるとは思わん。そんなこと言ってどうする。ちょっと憤慨している。

死なんてどれだけ論理的に言っても真相に近づくわけではない。
それは哲学者たちの死についての議論がしばしば退屈であることが証明している。
そんな世界で言わなくても、いやがおうでもここで体験しているものなのだ 。
そこから、つまり死の現場から以外のアプローチなんて「人間は誰でも死ぬ」「生命は有限」という、言わんでもいいこと以外に帰結しない。

と、言っておく。

私が自分の死ということで言えば、ほんとうに怖いのは物理的死ではない。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「「死生学」という言葉が嫌いなわけ」への4件のフィードバック

  1. 言い訳

      3日の記事 について 碑文谷創 先生にガッツリ叱られた……(´・ω・`)チョーションボリ
     先生、実名で叱ってくださって結構です。常々勉強中の身ですから、いけないところはいけないとハッキリ仰っていただく中で考え直しまた向上していかなければならないと思っています。
     まあしかし、指導や意見してくださる方々がいらっしゃるのは有り難いことです。誰も注意しなくなったら終わりだぞ…と昔から脅かされてきましたから(汗
     さて今回は私の思索の不足だ…..

  2. 言い訳

      3日の記事 について 碑文谷創 先生にガッツリ叱られた……(´・ω・`)チョーションボリ
     先生、実名で叱ってくださって結構です。常々勉強中の身ですから、いけないところはいけないとハッキリ仰っていただく中で考え直しまた向上していかなければならないと思っています。
     まあしかし、指導や意見してくださる方々がいらっしゃるのは有り難いことです。誰も注意しなくなったら終わりだぞ…と昔から脅かされてきましたから(汗
     さて今回は私の思索の不足だ…..

  3.  相変わらず、碑文谷さんは凄いなぁ~と感じますね。もう、10年以上碑文谷さんの文章読んでますが、ぶれないですね~。
     死生学については、同感です。武士道、騎士道とからめて話す人が多いですし、アメリカのように子供の頃からの死生学教育を日本でもしなければダメだともっともらしく語る人も多くいます。
     生の反対語が死?自分が、どう生きたいか、どう死にたいか、どんな葬儀をして欲しいか、死後どう評価して欲しいか等、各個人の自由だし、どう考えても全然構わないことです。しかし、生と死をどれだけ語っても、聞かされても、あくまで語る各個人本人の話であり、他の人にとっては、想像の世界です。全く同じ生とか死はないのです。生を考え、死を考えることは大事なことでしょうが、学問として論理的に極めようとすることには無理があります。
     生の延長線上に死があるのは、自明の理です。矜持を持って生きることで、死も向きあえる気がします。生には、反対語はないし、死には反対語もないのではないでしょうか。対比して考えることから、離れてみることが大事と考えています。間違っていますか?碑文谷さん!

  4. 生と死は反対語ではないですよね。対になって言われることは多いですが。
    あんまり難しく考えているのでないのです。「よりよく生きるために死を考える」「死を考えることはよりよく生きるため」なんて無理に動機づけなければ考えられないのか?
    という率直な疑問。
    死というのは抽象的に起こるものではないのです。常に誰の死、であるのです。それをそれと受け止めるしかないでしょう。
    その人も誰かの生きる動機のために死んだのではないのですから。
    死自身がもたらすものは極めて人間的です。だからグリーフがあったり、あるいはその死者が家庭内暴力を起こしていれば素直に解放感を抱くのだし、その感情もさまざま固有です。死別の悲しみはこうあるべきだ、なんてアホなことです。どれだけ未亡人はこうだ、と決め付けられ、そう演じなければ非難さえされた社会がつい20年前まで、いや一部では今でもあるのです。
    なんか回答にならないことを書きました。この歳で同級生も毎年死ぬとなると境界線に生きている気がするのです。

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