「四十九日がやれていない」と僧侶が言った。
3月11日の震災はほんの少し前だと思っていたが、その日から数えれば四十九日は4月28日。もう一カ月も前だ。
本日5月26日付けの警察庁の発表では、青森1、岩手2,934、宮城5,243、福島435、茨城1、千葉2、の総計8,616人(未確認情報を含む)が行方不明である。
「葬式だってやっていないのに四十九日なんて」、という気持ちだろう。国は早々と死亡宣告を従来は1年だったのを3カ月に短縮した。補償の問題とかがあるから、不利益を得ないように、ということだが。何か複雑だ。自分の中に解答を見出せない。
遺体が見つかった家族が周囲に遠慮していた、という話を聞いたが、被災しておそらくいのちを喪っただろう人の3分の1以上の人の遺体が発見されていないのだから、そういう気持ちもわからないではない。
たまんないな、と思う。
死は点ではなく、今回の震災は継続する死、現在進行形の死、とでも言っていいだろうか。
福島の友人が原発事故で避難していく人、津波で消えた人により「村が消えていっている」と嘆息した。
暮らしは十年なんかでは戻りようがないのが今回の震災であると思う。
死者は戻らないし、死者との暮らしも戻らない。
暮らしの集合体であるムラは戻らない。
東電の原発事故はまさに現在進行形だ。
ムラを潰している。
また、それをどうにかできる力は東電にはない。
今回の震災、補償で解決できるものではない。
いや、今回だけではないのだが、何となく補償でカタがつき、復興できると夢想しているだけなのだ、と思う。
今回のことで日本人が「死霊」と言って怖れていたものの一部がわかったような気がする。なぜお盆に施餓鬼棚が設けられたのか。それは戦死者を「英霊」とした心理にも通じているように思う。
喪ったものへの説明できない疚しさ、畏れを抱えて生きているという事実をそんな形でしか表現できなかったのだろう、と思う。
そのなんとも言いようがない想いが、低音ではあるが、はっきりとこの社会には通底しているのだ。
今はその声で頭がぶち破られるのではないかという感じがするが、昔聞いたおぼえがするのだ。それはわれわれの前の世代もその前の世代も確かに聞いた音なのだ。軍人の家系であるから聞かせた側でもあったろう。
うれしい話と言えば
「炭鉱記録画家山本作兵衛(1892~1984)の絵画や日記など計697点が、福岡県田川市などの申請でユネスコの世界記憶遺産に国内で初めて登録されることが決まった。」(朝日)
という話だ。
山本さんの絵画に出逢ったのは18歳の時。新聞にも出ていたが狭い坑道で作業する半裸の夫婦(男女)の絵。これにはなんともいいがたい暮らしのもつ迫力があった。
けっして上手な絵ではない。しかし、そこに確かに人間が生きていた、という感覚に大学1年の私はうちのめされた想いがした、ことを鮮明に思い起こす。
自分に生活感がまるでないものだから、当時も今も、その絵に戦慄しながら、しかし、何ごともなかったようにしていた。
数年前に福岡の田川を通過した。
当然のことながら46年前の田川ではなかった。
ボタ山も消えていた。
ボタ山は石炭の捨石集積場のこと。私が行っていた当時、ヤマ(石炭採掘場、炭鉱)は潰れ、潰され、閉山炭鉱の象徴のようになっていた。姿は小さい黒冨士という感じだった。
夜、ボタ山に登って見た星がえらいきれいで、圧倒するようだった、ことを思い出した。
ボタ山のある閉山炭住は、当時、人間が生活保護と失対と言われる公共事業で生き残された廃墟だった。今はそれも整地されてなくなっている。
その結果が原発というわけだ。そのうち原発も廃墟になるのではないか。
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田川市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
始めまして。
炭鉱で働く父の背中を見て育った私、61歳。
山本作兵衛の絵は伊田の石炭記念館でも
見ましたがもっと前、つまり40年くらい前
田川の図書館で初めて見たと思います。先生
仰るとおり単純な画法ではありますが迫力の
ある絵で今も鮮明に残っています。
今回の世界記憶遺産に選ばれとても良かった。
筑豊という負の部分を恐らくはそこで育った方々数多くの人々が感じ背負って居るのではなかろうか。つまり生活保護、失対、炭住の廃墟、
人々が町々を去り残され荒れ果てた土地への
郷愁と相反する後ろめたさのような感覚。
戦前、戦後の復興を支えたといっても良い筑豊の活気。そして喪失。
そこに生まれ住んで生活した土地の者であればその何ともいいようのない寂しさは
今でも心のどこかに残っていると思う。
今回ユネスコの登録で筑豊の地が少しでも明るくなれば良いと思っている次第です。