世界遺産に登録された平泉(岩手県南にある町。昔奥州藤原氏の居館があった地)。
小中学生の時には住んでいた一関から友人たちと自転車でよく行ったものである。
小学5・6年の担当の二宮先生(故人)は毛越寺(モウツウジ)の寺の僧侶で、教師と兼任していた。休日に先生のお宅に出かけ、先生の奥さんにご馳走になった。その後中尊寺に行き、観光客の後ろについて無料で見学。おそらく二宮先生の担任の子たちとわかって無料で中に入れてくれたものと思う。
二宮先生は小学校の教員だから何でも教えてくれただろうが、社会、特に歴史への興味を起こさせてくれた。
私が今でも歴史に言及することが多いのは二宮先生のおかげである。
今回「大文字送り火」が行われたのは束稲山(タバシネヤマ)。そんなに高い山ではないが周囲に山らしい山がないので目立つ。
校歌に、奥羽山脈で宮城・秋田・岩手の境界になっている須川岳(栗駒山の一関側からの呼称)と北上川とその支流の磐井川、束稲山が出てくるのが一関付近の通例であった。
束稲山には小学校3年くらいの遠足で登ったのだろうか。小学低学年でもそんなに難しいところではなかった。
毎日新聞によれば「大文字はたて180メートル、横260メートル、(平泉観光協会の)職員らが岩手県洋野町(ヒロノマチ、岩手県太平洋岸最北部、青森県境)から宮城県南三陸町までの14市町村で集めた家屋の柱など約3200本のまきで組んだ火床64基でかたどった」とある(カッコ内は筆者注)
ここではまきの放射性物質検査など話題にも上らない。
同じ毎日が隣りで報道しているのが京都の五山送り火。高田松原のまきは燃やさなかったが、そのまきに被災者が書き込んだメッセージを書き写した千本の護摩木がたかれたという。
長崎県は灯篭流しが盛んなところ、今回は大震災に関連する言葉が多く記入されたという。
何か今年はお盆が印象深い年となった。
仮埋葬の後、掘り返し、再納棺し、火葬という過酷な作業を石巻でしていたNさんから報告がきた。
8月15日に全ての掘り起こし業務を完了し、今日、明日の火葬を残すのみとなりました。
当社が行なった掘り起こし火葬は672件で、6市町村で仮埋葬された全体の30%になります。
「いつまでも続く敗戦処理」 「究極の汚れ仕事」 「大惨事産業」
というような幾つかの揶揄も時折聞こえてはきましたが、そんな位置付けよりも目の前の遺体を荼毘に付すことで精一杯でした。多くの方に支えて頂き、無事に完了できたことが何よりです。
8月に入り、被災地の遺族が、こちらが思う以上に「お盆」にこだわっており、出来ればお盆までに全ての遺骨を遺族の元に返してあげたいと思っておりましたが、火葬のスケジュールによって30数名の方は間に合いませんでした。(8月16日)
8月20日まで続くと言われていたので、ずいぶんとペースアップしたものです。こういう若い人の働きを私は誇りに思います。
少し注釈を入れる。日本の法律で公認されているのは火葬と土葬(一部の特例として水葬)である。
一類・二類・三類の感染症遺体以外は死後24時間経過して死亡届を出すと火葬または埋葬(法律的な意味では土葬のこと)の許可証が出る。
今回の東日本大震災での遺体は時間はかかったが福島、岩手両県は全て火葬した。
宮城県は後半は火葬にしたが、約2千体が仮埋葬(カリマイソウ)された。
そもそも遺体を火葬または土葬(埋葬)するのかは、2つの理由がある。一つは死者の尊厳を保って葬ること、もう一つは遺体の公衆衛生上の問題である。
土葬は本来早期に再掘されることは想定されていない。白骨化された後に再掘し、骨壷に納めることはある(二次葬)。
今回の仮埋葬は概念的には土葬で、2年間という特別規定があった。2年間というのはほとんどが白骨化した状態で、という想定があったろう。2年後に掘り返すというより2年間は埋葬しておこうというものであったろう。
それが火葬場が復旧した、東京の火葬場が受け入れたということで途中から火葬に切り替えた。仮埋葬された人の遺族は再掘し、火葬を熱烈に希望した。だがこの要望をきくということは実はたいへん困難な作業なのである。
今の棺はフラッシュ棺といって中身が空洞のベニヤ主体のもので、軽く燃えやすいことを考えて作られている。日本の火葬率は99.9%であるからもっともである。昔は原木で作った。もみ材などが多かった。
今の棺で埋葬したらどうなるか、上に1メートル以上の土の圧力を受け、土の湿気で棺はガタガタになる。埋葬直後であるから腐敗はいっそう進んでいる。臭気も多い。これは遺族でも直視できない。そこで彼らは棺ごと掘り出し、遺体を新しい棺に入れ、その新しい棺に入れた状態で遺族に火葬場で送ってもらう。
仮埋葬したのはこのままの状態では公衆衛生上問題があるので行なったこと、それを再掘するのはいっそう腐敗が進んだ状態で再処理することである。
こうした作業が過酷であるだけではなく、彼らはいろいろ言われたらしい。でも、彼らはこの作業をやり抜いた。
初期の仮埋葬は自衛隊が行った。
礼を大切にした彼らの作業は新聞でも高く評価された。
だが途中から自衛隊の作業を引き継ぎ、途中からは再掘に回った若い葬祭従事者のことはほとんど報じられていない。
8月6日の中日新聞・東京新聞の心のページで私が数行紹介したが、実感がないのであろう、その過酷さと遺族の元に遺体を尊厳を限りなく追求し送り届けるという彼らの作業はあまり注目されなかった。
大震災の後でヘドロをかき出すボランティアの作業も続いている。
お盆の後にもまだまだ「復興」というにはほど遠い作業が残っている。
「死者を送る」ためになすことはまだ残っている。
坂本九さんらを乗せた日航機羽田発大阪行の125便が迷走し、群馬県上野村の御巣鷹の屋根に墜落したのが1985年の8月12日。
今年も家族らの記念登山があった。
テレビの報道で、「25年経っても悲しい。震災のご家族もゆっくり付き合っていったらいいと思う」という主旨(正確ではないが)のことを語っているのを見た。
いつになったら悲しくないようになるかが問題なのではない。個々に違うので焦ることはないし、焦らすことはない。
「被災地に元気を届ける」と勇ましいかけ声が飛ぶ。
家族がゆっくり時間をかけて死者と自分の中で付き合っていく、というのはマイナスな作業ではない。必要な作業なのだ。
空元気は時には煩(
うるさ)い、ということも知っておく必要がある。
プラス思考だけでは生きていけないということをもっと知る必要があるだろう。