学者は手を抜くな 松尾剛次『葬式仏教の誕生』

きょうは雨
あまり得意ではない。

日本中世史が専門で注目していた松尾剛次さん(山形大学教授)が本を出した。
『葬式仏教の誕生 中世の仏教革命』(平凡社新書)というタイトルだから買うじゃないですか。
しかし、この本は、学者はよほど調べなければ専門外のことを書くべきではない、という見本みたいな本である。

「現代」という問題意識、昨年ブームになり今や急激に廃れた島田裕巳さんの『葬式は、要らない』に対抗したつもりだろうか。島田さんの本が売れたのは時代のムードに合ったからであり、本の内容は素人丸出しの程度の低いものであった。それが「東大の宗教学者が書いた本」となった。

「葬式仏教の誕生」(私は「葬祭仏教」と中立的に用いて、揶揄的な「葬式仏教」という言葉は括弧付きでしか用いない。なお歴史的名著である圭室諦成大先生の名著のタイトルは『葬式仏教』(大法輪閣)であるが、圭室先生は「葬祭」と「葬式」をあまり意識せずに併用している)というタイトルに惹かれて読んだが、第1章の「現代の葬式事情」を読み、あまりの素人さに腹が立った。

今生きている時代のことにこうしたいいかげんなことしか書けない人間が中世について書いたことが信用できるのか、とさえ疑問に思った。学者が書くなら調べられることは調べて書け、と言いたい。
「学者」が書けばとかく信用する危ない世界(島田本も根拠の乏しいデータを使ったのだが、「学者が使用した」と根拠あるものにとらえられたのだが、松尾さんもその島田本のデータを引用している。根拠のないデータもこうしてすっかり公認されたものになる恐ろしさ)なのだ。気をつけて書くべし。
書くなら素人としての分野は素人としての謙虚さで書くべきだろう。
かねがね松尾氏の中世仏教研究に注目していた一人として至極残念である。

「千の風になって」は原詩は英語で、日本では新井満訳・作曲の歌でブームになったが、少なくとも原詩は松尾氏が言う「墓石と墓参り習俗を否定」することを目的に書かれたものではない。
僧侶たちが、「墓石と墓参り習俗を否定」する歌と心配したことは事実であるが。

火葬についても奇妙なことを言っている。
「火葬は、死体を火によって燃やすやり方である。都市化が進み、土葬にする土地が少なくなったことや、土葬にすると腐敗臭が出るなど、衛生上の問題もあって、現在、日本では火葬するのが原則である。」

日本において火葬は明治末期から推進されることになったが、6割を越すのは1960(昭和35)年のことで、この年が63.1%、1970年には79.2%、1980年には91.1%、と急激に火葬率が上昇、2010年以降は99.9%である。

明治後期からの推進は、コレラ等の感染症対策を契機としている。だから「衛生上の問題」とするのは正しいが、「土葬は腐敗臭」というのはいかにも見たかのような嘘である。
腐敗臭が外に漏れないよう深く埋葬したのが通例で、松尾氏が専門の中世では、行き倒れの死者が街にそのままに放置された事例もあったから腐敗臭はあったろうが。

「土地が少なくなった」のは江戸、大阪等の大都市では江戸時代からそうであり、今韓国や中国で火葬を推進している理由の一つは土地の有効利用にあることは確かである。だが、日本で高度経済の波に乗って推進された理由は少なくとも「土地の有効活用」はそれほど目的とされてはいない。「近代化」が旗振り役になった。

また、日本では、墓埋法では土葬も認められていて、現実的に火葬が進んでいるのは、せっかくお金を出して火葬場を作ったのに利用されないのは困るという各地方自治体が条例等で原則化しているので「法」レベルのことではない。

松尾氏が、おそらく筆が滑ったのであろうが、「存在論」の問題として「火葬をする人々は火から生まれ、火に帰ってゆくと考えているだろうし」と書くのは与太話以外の何ものでもない。

松尾氏はエンバーミングについて自信をもった解説をしている。それはそれほど間違ってはいない。でもこの情報どこから得たのであろうか。参考文献にはエンバーミングを論じたものはない。どこかの施設を見学したのであろうか。あるいはネットでIFSA(日本遺体衛生保全協会)のサイトから得た情報なのであろうか。ネットからの情報であれば、参考として書かなければならない。

また松尾氏は「現在、日本には五人の日本人エンバーマーがいるそうである」と書く。
「現在」という以上、調べればすぐわかるはずである。IFSAのサイトを見たのであればIFSAに問い合わせれば事務局では「2011年5月段階では」と教えることになっている。その手間も省いたのか。
私が書くものでは「○年○月現在」と断わったうえで最新のデータを出すし、私だから書けるのではなく、研究者の問い合わせに応じている。「5人」というのはいつのデータか。

少しだけ言っておくとIFSAでは日本人エンバーマーを養成しており、IFSA認定のエンバーマーは70人を超える。
「5人」に近い数は、「北米で資格をとった日本人」の数に近い。これは正確に把握しているわけではないが(日本で現在全てがエンバーマーとして仕事をしているわけではないので)7~8人である。

松尾氏は「エンバーミングは、もともと戦死者のための技術なので、事故などで破損した遺体も復元することが可能である」と書いている。いかにも自信たっぷりに。

「復元」は現在は「修復」と訳語を統一しているが(restorative art)そんなことはどうでもよく、修復には限界がある。爆破されて粉々になった遺体を修復するなどはいくらエンバーミングでも無理があるようだ(私自身はエンバーマーではないので)。
「戦死者の技術」というのは半分だけあたっている。
北米でエンバーミングが流行した契機となったのが南北戦争であるからだ。
当時の北米では土葬が中心であったので(今はすごい勢いで北米でも火葬が進み、州によっては5割を超えたところもあるので、現在は「土葬の国」とは言えなくなっている)、遠距離にある戦地から地元に戦死者を還す時に遺体の腐敗が進捗しないことを主たる目的としてエンバーミングが行われた。

「リンカーンもそれを勧めた一人」かどうかはわからないが、南北戦争に勝利したリンカーンが暗殺された後、エンバーミングが施され、その遺体が各地を回ったおり、その遺体を見たことでエンバーミングが人気となり普及する大きな契機になったらしい。

米合衆国ではfuneral law(葬儀に関する消費者保護のための法律とでも訳そう
か)に葬祭業者は「エンバーミングは義務づけられている」と言ってはならない、とあるので、約9割程度の遺体にエンバーミングされてはいても、義務づけられているわけではない。

日本の米軍基地で朝鮮戦争、ベトナム戦争での戦死者がエンバーミングされたことは歴史的な事実であるが、しかし松尾氏が言う「地雷で死ぬと、体がバラバラなので、くっつける必要がある」からではない。こんなことができるはずがない。
なお現在では遺体の航空機による移送ではエンバーミングを施すことが航空機会社の常識みたいになっている。だから海外で死亡した日本人は遺体のまま帰国させようとすると、エンバーミングが施されている例が多い。

「学者が書いた」のは「信用」という付加価値があり、私のようなジャーナリストが書いたものは引用対象にすらならないのが、どうも学者さんの世界らしい。
しかし、死や葬送が少し話題になると歴史家、社会学者、民俗学者が、まるで素人なのにいかにも知っているかのように語ることが増えているのは困る。書くなら、きちんと調べろと言いたい。

最後にするが、松尾氏はこんなことも言っている。
「カトリックでは、最後の審判の復活に際し、死んだときの姿で復活すると考えられているため、火葬は禁止されている」と書く。
この本の発行は今年の8月である。
復活を「身体の復活」も含めるが、「死んだときの姿」と説明されたかは私は不明である。但し、日本のカトリックは明治時代から火葬が許容されていた。
カトリックで火葬禁止が解かれるのは1960年代のバチカン公会議で、以降は北米、欧州でも火葬が増加している。
もう40年前に変化したことをわからずに書くのは恥ずかしいではないか。

すぐ調べればわかる現代のことに対する理解がこんな程度でいいのだろうか。
期待して読んだが、本論は特に新しいことを言っているわけではない。
3・11後に出された本なので、それが油の乗った50代の学者がどう受け止め書くか、関心をもったが、こんな程度の現状認識から始まっているのだからがっかりである。
ジャーナリストで学者じゃない者でも歴史や何かを書くときにはできるだけ調べて書く。調べることを欠いた学者の不確実な本は、それを読んだまた素人の学者や学生が引用してそれを拡散する。
いやなこった。

松尾さんの反論を期待している。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「学者は手を抜くな 松尾剛次『葬式仏教の誕生』」への6件のフィードバック

  1. 松尾です。拙著への批判、感謝いたしております。手を抜いたつもりは全くありませんが、一般書なので、引用などが完全ではなかった点は反省しています。日本中世史の部分を良く読んで欲しかったのですが。島田君のも、その時代の分析が間違っているので、批判したつもりです。エンバ-ミングにつては、自分で調査し、『在家仏教』2006年、11月号に書いた拙稿「日本におけるエンバ-ミングの夜明け」に基づいています。土葬については、貧しい方の場合、深く埋めないためですかね、臭くなるという話を聞いています。葬儀と存在論は、バシュラ-ルの『蝋燭の焔』 などの連作に基づくもので、宗教学では常識のような話です。与太話ではありません。以上

  2. はじめまして。30代の真言宗僧侶です。
    松尾氏の著作をよみ、その後ネットでいろいろ検索しているうちにここにたどり着き、当該記事に大変興味を覚えました。なお、小生は、御作「死に方を忘れた日本人」も拝読しました。勉強させていただきました。ありがとうございます。
    ご指摘にはちょっと衝撃を受けました。そして松尾氏がその後書き込んでおられることにも興味がわき、もう一度ご指摘に沿って読み直してみようかと思っている次第です。
    さて、おたずねしたいのは、「期待して読んだが、本論は特に新しいことを言っているわけではない。」という部分です。「本論」が指す箇所にもよるかと思うのですが、一応本一冊を指しておっしゃっているのだということでおたずねします。
    松尾氏の当該著作の核心ともいえるのは、たぶん、だれもしようとしなかった(僧侶でも官僧は)葬儀を、中世の遁世僧が請け負っていくようになる、というあたりだと思うのですが、この部分も新見解ではないのでしょうか。
    その場合、
    ①松尾氏の(既発表の)自説が一般向けにリライトされただけで新しくない
    ②すでに同様のことを松尾氏以前に指摘している論が存在する
    ③誰かの論述以前に、当然周知のことである
    という、いずれなのでしょうか。まさかとは思いますが②であれば、その論文なり、著作なりを読んでみたいと思っています。たぶん①なのかなという気がしてはいますが、一応おたずねしたいと思います。③であれば、自身の不徳と思うしかないですが…
    また、①~③のどれでもなければ、それもまた是非ご教示下さい。
    もしかして松尾氏にお尋ねするのが筋かもしれませんが、「新しいというわけではない」という示唆はこの記事からいただいたので、こちらでお尋ねいたします。
    よろしくお願いいたします。

  3. 松尾さんについて検索するとこのブログが出てくるので、松尾さんにはご迷惑をおかけしています。
    松尾さんの『葬式仏教の誕生』についての私の批判はこの日のブログと10月7日のブログで尽きています。1回目については松尾さんが反論いただきましたが、2回目については反論が来ていませんので、それ以上は私も控えています。それは礼儀というものです。
    但し松尾さんの反論は成立していない、と私は思いましたので根拠も含めて次回(10/7)に書かせていただいています。
    私が書いたことは松尾さんの過去書かれたものと比して、という意味以上は書いていません。また、松尾さんの本にも第1章を除けば価値があると思います。その点は「言い過ぎ」として書かせていただきました。
    但し一言するならば、圭室諦成『葬式仏教』、大桑斉『寺檀の思想』という基本図書でも、仏教が民衆化したのは各教団が意図して、正式に論をもって行ったもの、とは記述されていないし、むしろそうでない人たちが中心になったろうことが示唆されています。
    以下は松尾さんとは無関係に述べるものです。そちらが真言宗(といっても一つの教団ではありませんが)の30代の僧侶、と名乗られたので書くのですが。
    「仏教の民衆化」とは「民衆の仏教化」と重なったところ(それが「葬祭仏教」だと私は理解していますが)に成立するのであって、ここいらについては仏教教理正史としてではなく仏教民俗学ともいうべきところから藤井正雄、佐々木宏幹らの方々が研究されました。
    こうした「仏教正史」ではろくに取り上げられてこなかった「生活仏教」についての研究が進んだこと、また生活仏教である葬祭仏教についての批判が高まっていること(葬祭仏教批判は江戸期にすでにある)を背景に全日本仏教会ですら問題として取り上げざるを得ない状況にあるのです。
    それを積極的に「いのち」の問題としてとらえ直そうという方々も仏教界では増加しています。
    官制になったのが江戸幕府の「寺請制度」ですが、僧侶が葬送に係わる必然性が各教団内部できちんと議論されたわけではないのです。
    明治になり、神仏分離、「信教の自由」(このカッコには意味があり「カッコつき信教の自由」と読む)を経て仏教各派は「近代宗教」に取り込まれていったのです。ここいらの歴史検証も不十分なものですから(これは仏教にかぎりませんが)やすやすと戦争協力体制に巻き込まれていったのではないか、と私は考えています。少なくとも戦後早々の見直しができなかった問題が大きいと思います。
    僧侶養成を目的とした仏教系大学、学部で葬送をめぐる問題についてほとんど教わることがない、というのは異常でしょう。
    いやおうなく現場で個々が直面するのですから、僧侶が戸惑うのも当然な話です。
    高橋卓志、小川英爾らの僧侶も、個々に取り組んでいることです。
    真言宗では「高野聖」についてもっと活発な議論があってしかるべきでしょう。葬祭仏教化するにあたって高野聖の影響力はかなりのものであったろうと思います。
    別格本山が見習僧を葬式に派遣する等の僧侶派遣プロダクション紛いのことを堂々と行っていることのおかしさ、これを本山が放置していることのおかしさ。高野山だけの話ではありませんが。
    いま現代の「聖」もどきが、ビジネスとして葬式に係わろう、としています。それと組むおかしさを理解していない葬祭業者もいます。彼らも「マーケット」として以外に葬送が見えていないのです。
    「臨床宗教師」「臨床仏教師」というのも、意識して取り組んでおられるものなのでしょうが。

  4. 昨日投稿させていただいた僧侶です。
    ご丁寧に、しかも早々にありがとうございます。よくわかりました。感謝申し上げます。
    なお、昨日書かせていただいたのは、もう一回ご批判なさっている記事があることに気づかず記し、送信してしまったものです。ご寛恕下さい(その後もちろん拝読しました)
    ●私が書いたことは松尾さんの過去書かれたものと比して、という意味以上は書いていません。また、松尾さんの本にも第1章を除けば価値があると思います。その点は「言い過ぎ」として書かせていただきました
    …諒解いたしました。ありがとうございます(上述の通り、後日記事を拝読しないままにお送りしたため、失礼をいたしました)
    ●僧侶養成を目的とした仏教系大学、学部で葬送をめぐる問題についてほとんど教わることがない、というのは異常でしょう。
    いやおうなく現場で個々が直面するのですから、僧侶が戸惑うのも当然な話です。
    …おっしゃるとおりです。私は宗門の大学を出ていないので、各大学の状況は存じ上げませんが、いわゆる修行道場に一年いくことで僧籍を取りました。そこでは、葬儀に関することは一年でわずか二回の授業(のべ二時間弱)、それも作法に関することのみでありました。実際、現場、現状のことは直面して学んでいった次第です。ちょうど、教習所の理論だけを学び、箱庭のような中で少し運転してみただけのような状態でした。ようは、現実の路上に一回も出たことがない、というようなものです。”交通事故”をおこしている、あるいはそうと気づいていない僧侶がやはりいると思います。
    真言宗では「高野聖」についてもっと活発な議論があってしかるべきでしょう。葬祭仏教化するにあたって高野聖の影響力はかなりのものであったろうと思います。
    …これまた同感でございます。おそらく「高野聖」のような真似をせずとも檀家寺としてやっていけるという“守り”に入るところがあるからでしょうね。かくいう小生の自坊も檀家寺ですので、そういう檀家方をほおって置くわけではないですけれども、外に向けて、住職と二人で全国を高野聖よろしく行脚できるかというと、引っ込み思案になるというのが、恥ずかしながら現時点での正直なところです。
    もちろんそんな個人的活動にとどまることの話ではないのだと思いますが、個々の意識の集合としてそういう指向性をもつと本物になるのだろうと思いますので、現状ではまず僧侶個々人意識をどう変えていくのか(あるいはそういったことへの学びを蓄積していくのか)ではないかと思いました。
    いま現代の「聖」もどきが、ビジネスとして葬式に係わろう、としています。それと組むおかしさを理解していない葬祭業者もいます。彼らも「マーケット」として以外に葬送が見えていないのです。
    …この危機感が、肝心の寺院と僧侶の多くに欠けているのでしょう。少しズレるかもしれませんが、現代のビハーラがない(仏教系ホスピスの異常な少なさ)も、そういった危機感のなさとどこかで通底しているような気がします。
    今回いただいたご回答や、御著書などからも私は学ばせていただきましたが、僧侶、とくに若手はまず知ること、からだろうと思います。
    現在某本山で、修行僧に漢文を講じています。作法次第を読むためですが、できるだけ間にこういった話を盛り込んで考えさせるようにしています。同時にそれが単なるコーヒーブレイクではなく、どれほど大事なことかということも。
    ご教授いただいたことなどもまた盛り込んで、若い僧侶達と議論をかさねて、そして何かしらの「実行」をみれるように精進したいと思います。
    このたびは不躾な質問にもご丁寧にお答えいただき、感激いたしました。また何かあればご教示をお願いするかも知れません。いくらでもお教えいただきたいことはありますが、だらだら甘えるのも申し訳ありませんので、まずは、今回、これにて失礼いたします。お手間をお掛けいたしました。
    今後のご活躍をますます、楽しみにしております。
    ありがとうございました。

  5. 私もロートルで、しかも知識的にはおよそ不充分な者にすぎません。
    ブログを公開している以上、何か疑問の点、反論も含めて、可能なかぎり回答させていただきます。
    また、何かありましたら何なりとお申し付けください。
    いろいろな宗派のさまざまな集まりで話させていただくことも多いですが、いい方にもたくさんお会いしました。いろいろ教えられることも多々あります。中年の方は悩みが深く、大きいです。
    現状はまさに悪貨が良貨を駆逐しようとしている状態であるように思います。
    ついでに書くならば、この記事は2011年段階のものですから、その後の日本のエンバーミングについての最新データを紹介しておきましょう。
    2012年にはIFSA認定施設は全国に43カ所、処置件数は年間約2万6千体にのぼりました。外国人エンバーマーも少数残っていますが、日本人エンバーマーは110名を超えていて、現在は主力になっています。
    エンバーミングは日本では1988年にカナダ人エンバーマーにより行われたのが最初。それ以前は、母国に防腐処置して送り届けるためには、主として医科大學、医学部の解剖学教室で処置していました。但し、単なる防腐だけを目的とした処置では受け取った側から誤解(虐待等の)を受けたケースもあったため、現在では領事館等からの求めに応じてIFSA認定施設でエンバーミングされるケースがほとんどです。

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