自然の脅威、自然の恵み

9月24日付けの『中外日報』を見ていたら、別な場で荒俣宏さんと山折哲雄さんが似たようなことを言っていたようだ。

荒俣さんは臨済宗青年僧の会(私も2度ほど呼ばれたと思う)で「人類と地球の仲直り」というテーマで講演した。(以下、中外からの引用)

東日本大震災の被災地の印象を語り、「自然には破壊と恩恵の2つの側面があるが、人間は受け止めるしかない(略)」

山折さんは九州市民大学の9月講演会で話した。(以下、中外からの引用)

東日本大震災や津波、大きな爪痕を残した台風12号のように自然は恐ろしさを持つ反面、打ちのめされた人間を優しく包み込み、癒してくれるという「残酷なまでの二面性を持っている」と話した。

前にも書いたと記憶しているが、日本の歴史を政治的な変動ではなく、「死」という側面から描くと「自然災害と疫病」がいかに人間の歴史に影響したことかわかる。それは政治的変動よりもむしろ大きいのではないか。

日本の民族宗教である神道は自然信仰と言ってもよいだろうが、そこには太陽や自然の恵みだけではなく「畏怖」として捉えられているのは「暴虐」とさえ思える自然災害と疫病への恐怖である。そこで「清める」「祓う」という儀礼のもつ意味の大きさがわかる。

とかく自然に対して恵みを強調しがちだが、人間の根には災害、飢饉、疫病への恐怖感が深く根づいている。

政治的な事件、例えば二二六事件の叛乱の裏には兵士の家族の住む東北の大飢饉があった。
仏教の民衆化の背景にも戦国時代にあって天候不順による飢饉が影響している。
日本で火葬が進展したのも当時のコレラの大流行が背景にあり、火葬の進展と明治民法の「家(イエ)制度」が絡み、「家墓(イエハカ)」が以降大流行するところとなった。

祝い事の背景にもさまざまな問題がある。
幼児の七五三が祝われるのは、かつての乳幼児の死亡率が半端でなく高かったことがある。
今では親や祖父母の虚栄心の徴のようになっていて、戦後初期まで共有していた緊張感が失われているが。

各地の災害の跡地には、復興リーダーの像や神話が残るが、裏返せば災害の大きさとそれへの恐怖感がそこにはある。

山折さんも私同様に東北人であるが、一つ意見が異なる。

震災での日本人の冷静ぶりが海外に報道されたことについて、「海外で被災者が怒り、悲しみ、苦しみを全面的に解放して泣き叫ぶのと対照的。これは単なる偶然ではなく、何か大きな理由が横たわっている。ここに大震災を生き抜く可能性があるのではないか」と指摘。

と、中外は山折さんの発言を紹介している。
山折さんの日本人一般と海外との比較するという大きな尺度は聴く人を魅了するが、そんな美しい話ではないだろう。
私は海外の論調について訊かれる度に「東北人は虐げられることに馴らされたからで、いいことではない」と怒ったものである。
同じように対比するなら東北人と関西人だってえらく違う。それは歴史が違うのだ。

今度の震災でも発見された遺体の身元判明には近隣の人たちの証言が役に立ったと、東北に住む友人は語る。
家族ごと流されて、証言する家族がいなくとも地域共同体のつながりが東北では相対的に強いことからきている。

3・11から半年が過ぎても行方不明は約4千人。これは家族等が申請した数であるから、申請する者が不在の人、住民登録していない人はカウントされていない。
一方、発見された遺体の7%が身元不明、約1千人。DNA鑑定してもわからない死者たち。もちろん遺体の損傷度も高かったが。
地域共同体のつながりが強い東北ですらこうなのだ。

東京などの大都市で同じような事態が発生したら、行方不明の数は実際の行方不明届の出た数と大きく乖離するであろうし、身元不明の死者の割合ももっと大きいはずである。

今度の東電原発事故で明らかになったのは、放射能汚染、放射性物質の危険度について、今まだ信頼できるデータがないことである。
日本の戦後はヒロシマ、ナガサキで始まり、核実験場所近くで被爆した第5福竜丸の件もあり、今では50を超える原子力発電所もあるというのにである。これは科学の怠慢ではないか。

何が安全で何が危険なのか、どのくらいがどうだというのか、公認され信頼される基準値がないところで不毛な意見対立が起こっている。「情報が知らされていない」と言うが、どこに信頼できる情報があるというのか。

私もこの件で親しい年若い友人としなくてもいい口論となった。彼は危険度を強調し、私は情報がないところでの覚悟の話をする、というまさに不毛な口論であった。
その背後には年若い友人らは小さな子をもつ親であり、それだけ危険度の察知感覚が鋭くあるということだ。
こちらはもう毎年同級生が複数死んでいく高齢世代で、若い時代には高倉健演じる任侠精神の虜であったものだ、というのもあるだろう。
こちらの「危険を顧みずにやれることはする」が、向こうでは「それによって影響を受ける人がいたら責任を取れるのか?」という解のない世界に入ってしまった。

情報をもっていない辛さを痛感する。
でも今度の原発事故、思ったより酷いことは確かなようだ。

どうも歴史は「現代」となっても、古代・中世の人々とどっこいどっこいの世界に住んでいるようだ。
現代から見れば「理不尽」とも思えるケガレへの恐怖感と現代から見れば何の効果もないキヨメ、に頼った時代を、原発事故に面してわれわれもけっして嗤えない地平にいるのだ、とつくづく思う。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/