私的な喪失や悲しみの記憶

各地で3・11東日本大震災についてのシンポジウムが行われ、その紹介記事が各紙に掲載されている。

仏教関係の専門紙では松本・神宮寺の高橋卓志さんが臨済宗だけではなく真宗にも乗り込んで発言している様子を報道している。
南相馬市に行った高橋さんは「お坊さんならお経を頼む」と遺族に頼まれ。出棺時に経を読んで送る時、いつのまにか20人くらいの警官が集まって来て敬礼して送った、という体験を紹介したという。

岩手県警も宮城県警も未だに捜索活動を止めていない。福島県警も同様である。
福島県警が原発事故の炉付近まで行って捜索していることを前に紹介したが、今回の震災で各県警が「死者への敬意」、「情」をもって活動しているのは特筆すべきことだと思う。

県警だけではなく、消防団、消防員もそうだ。
交番の「お巡りさん」、地域の「消防団員さん」が大津波の襲来を知らせ、また助けようとして生命を喪った例が少なくなかった。
また、生き残った同輩がこうして捜索を半年以上経過しても止めようとしない。

昨日(10月19日)の毎日夕刊では、約8500人が犠牲になって達成された革命後のエジプト代表と1万5千人超が犠牲となった東日本大震災の2つに焦点をあてた「死者の追悼と文明の岐路―2011」と題するエジプトと日本との学術交流シンポジウムが9月23日に開かれたことを報じていた。

主催した東大人文社会系研究科グローバルCOE研究室ではその意図をホームページで書いている。

2011年は、中東における激動によって幕を開けた。その渦中にあって、エジプトはきわめて劇的な社会変革を成し遂げつつある。この最中、3月11日に日本を東日本大震災が襲った。とくに地震後に襲来した津波は夥しい数の死者をもたらし、原子力発電所事故による被害も、今なお深刻さを増しつつある。本シンポジウムは2011年、「革命」と大震災というアクチュアルな課題に直面しているエジプトと日本の状況を、グローバルな視座から併せて論じようとする野心的な試みである

この試みが果たして「野心的」だったかは行っていないのでわからないが、学者だけではなく、現場にいた人、例えば被災地の警官等に喋ってもらったら、もっと「野心的」であったろう。

シンポジウムのタイトルのように、あんまり大上段に構えるとろくなことはないようだ。
新聞報道を基に書くと正確ではないので、少々にとどめるが、基調講演では、14世紀のペスト流行からルネッサンスという飛躍につなげた欧州、18世紀大地震を体験したリスボンが今の美しい都市を生んだなどという、あまりに大きすぎる文明論が語られたようだ。
しかし、先行き見えない「革命」後のエジプト、いまだ災中の東北について、こんなきれいごとは意味のない議論であることは確かなことだと思う。

ツイッターでは

無惨な死と未来への企図の結びつけ方に新しさがある。

などと評価されているが、安直な反応だ。

「現実を見るより未来に夢を見たいのでは」
と思ってしまう。
実際に感染症はその後も克服されず、地域を変えては大地震で破壊された地域は少なくないのに、と思う。

私なぞは東北人の一人として、奥州藤原氏滅亡後の飢饉、災害に塗れた東北の歴史とともに論じられたらよかったのに、と思う。

この毎日の記事で紹介された東大宗教学教授の池澤優さんの発言は大切だと思った(本来これだけ書けばよいものに、つい悪態をつく私は性格が悪い、と自分でも思う)。

新聞記事だから正確ではないだろうが

阪神大震災後に建てられた慰霊碑の中に、「復興」が強調されるあまり個々の死者のイメージが希薄化した例がみられるとして、「多くの人々の死に際して、さらなる安全な社会を志向するだけではなく、私的な喪失や悲しみの記憶をも同時に記録すべきだ」と問題提起した。

と報じられた。

阪神・淡路大震災でも慰霊碑ではそうであろうが、家族の死がもたらす問題を新聞でもずいぶん取り上げられたと思う。
神戸の人たちの想いは今でも継続している例があるだろう。
子を亡くした母親たちの傷みは癒えてはいないだろう。

しかし、被災地以外では、あれだけ当時は大騒ぎしたのに、ほぼ3年で、外装が整われることで忘れられたように思う。
当事者ではない人間は、当座は熱気をもつが、忘れるのも早い。
戦争の記憶だって、10年くらいしたら朝鮮戦争を契機にした経済成長により社会の表面から消えた。

3・11では、まだ多数の行方不明者がいて、県警は捜索を継続している。
死亡届を出せないでいる人もいる。
原発事故では、地域を追われた人が多数いる。
除染も始まったばかり、その後の処理も決まっていないどころか、危険が去ったわけではない。
被害の実態さえ明らかではない。

「記憶」は変化するものでもある。同じ人間の中でさえ変わるのだ。未だ「記憶」として認めることを拒む人も大勢いるであろう。

3・11について言うならば、今私が最も下品な言葉とするのは「復興需要」である。
他人の災難を食い物にしようとしている奴らの非道さ。

こういうものが横溢する中で、池澤さんの発言はしごくまっとうなものに思えた。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/