ふつうの時間

きょうは少し暑いくらいだ。

ベランダでタバコをくゆらす。
下を親子連れが何か話しながら歩いている。
先ほどは父親と4人の息子。
その横を中年にさしかかったカップルが手をつないで通り過ぎる。
自転車に乗った中年の男が走り去る。
犬を連れた女性が通る。
私はそれを黙って見ている。

少し校正をする。
他人の文章は常に刺激的だ。
それは人の取材にしろ自分とは視点が異なるからだ。
そういう見方をすると取材された人はこう答えるんだな。
自分の視野がえらく小さく見える。

原稿にはまだ手がついていない。
原稿というのは試合のようなものだ。
とりかかるときはどうなるか展開を頭でシミュレーションする。
だが実際にはそうはいかない。
初回にピンチを迎える。
最少失点でくいとめられればいい。
しかし、しばしば連打を浴び、立ち往生する投手になる。
投手交代を告げ、速球派から変化球投手にするが、2~3回投げたところでまた捕まる。
相手との得点差は広がる。
野球は交代や代打という手があるが、書き手は一人である。
自分の中にある持ち駒を使っていくが、もう手はないときがある。
完膚なきまでに打ちのめされる。
よくあることだ。

長年のうつもちだから、頭がロックしてどうしようもなくなるときがある。
時間はどんどん過ぎていく。

外を歩く人たちの顔はほとんどが穏やかだ。
というより表情からは何も読み取れない。
おそらく僕も外を歩くときは同様なのだろう。
開会時間が迫って会場に汗をたらしながら急いでいるときを除いて。

昨日、車で急いでいて、先方に遅れることを告げようとしたら、それは1週間先予定であった。

気分を変えるために昔からの行きつけの理髪店に行った。
髪なんて同じようなものなのだが、2回時間が合わずに行きつけ以外の店に行ったらなんか感じが違う。そのため落ち着かない。
他人からはどうでもよいことなのだが、自分は違和感を感じ続けていた。
そこで調髪してもらって、少し落ち着いた。
2回あけたものだから見せしめにマッサージなどやられて2千円多く取られたが。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/