歳末、風邪をひきました。
昨日(27日)咳き込むことが多かったのですが、若い時から時折り起こるもの、と甘く見ていましたが、夕方になり、明らかに風邪の症状。
昨夜は早めの22時頃に帰宅準備。
家に帰りパブロンを飲み、早々に寝ました。
今朝は症状はいくぶん軽くなりましたが、対策は緩めず、早期の回復に努めます。
今年は私にとっては慌ただしい1年でした。
原稿が玉突き状態で遅延し、あちこちに迷惑をおかけしました。
積み残した大物もあり、年末年始はこれに取り組むつもりです。
関係各位には、心からお詫び申し上げます。
60代に入り、原稿への集中力が長く続かず、締切に間に合わないことが多くなりましたが、70代を前に酷くなっています。
また年来の鬱が時折り訪問してくれて、これも筆の進みを遮断してしまいます。
それらを宥めながらの1年でした。
夜、ラジオをつけたら教師が心の病で休職するケースが増加していることを論じていました。
そのなかで生徒の親の教師に対する力が増加し、親たちが学校運営へ影響力を強めていることが指摘されていました。
そもそも子どもの教育をすべて学校に押しつけるのは間違いで、子の教育には家庭での親の責任が半分以上あるとみて間違いないと思うのです。
また親も子どもを都合のいいように育てるエゴを捨てるべきだと思います。
自分たちの責任を棚に上げて、教師、学校に責任をおっかぶせようとする親に問題がある、と考えたほうがいいと思います。
似たような話を僧侶の方々から聞くことがあります。
今の社会の問題は学校で宗教、道徳についての教育がないことからきている、というのです。
とんでもない話で、学校に何もかも問題をおしつけるな、と言いたい。
仏教関係の新聞を読んでいると、宗派の管長とかのトップクラスまで、そのような戯言を言っていて、いやになります。
自分たちがやるべきことをやってから言うなら、まだわかりますが、自分たちができていないことを公教育に責任を負わせるというのは頽廃以外の何ものでもありません。
学校教育はもっと禁欲的であっていい、と思います。
自分の子ども時代を考えると、学校という場は利用したものの、仲間、自分自身がどう取り組んだか、のほうが重要に思います。
いい意味で「個」に貫かれる必要を感じます。
教師、宗教者、政治家…かつて「先生」と言われていた人たちの地位低下が著しいです。でも、もともと「聖職者」などはいないのであって、より実像に近づいた、非神話化が進んでいるのだと思います。
こうしたことは悪い現象ではないです。本人たちも今までは表向き過大に評価されてきたことへの居心地の悪さを感じていたはずです。
これの一つの表れが休職教員の増加にあると思います。
人の権威は役職に求めることではないのです。
また、最近はNPOに注目が集まっています。
「新しい公共」などという、どうも落ち着きのない言葉と一緒に。
NPO法人つまり特定非営利活動法人は2012年10月末内閣府調査で46,553法人、そのうち認定されたのは294団体。「認定」というのは、NPO法人の中で公益性が高いと評価されて寄付金税額控除が受けられる法人と認定された法人のことです。
だがこの実態はかなり危なっかしいところがあります。
市民活動が法人化されて動きやすくなった面はあるが、市民活動の仮面をかぶった団体も少なくないのです。実態を見極める必要があるように思います。
もともと社会というのは「公」と「個」だけで成り立っているものではないのです。寺院・教会・神社、地域、それ以外にもさまざまなネットワークがあります。
「野」というのは、本来誇り高いもので、「公」に近づくものではないと私はかねがね思っています。
有利な制度は使えばいい、くらいのしたたかさが必要に思います。
戦前・戦時中に宗教団体が「信教の自由」という権利を宗教団体として国から認定されることによって手に入れた、と錯覚した結果が、宗教団体の戦時協力を招いた、という痛い体験があります。
あれは軍ファッシズムの所業、とだけで済ませることはできないように思います。
教育問題についても「有用な改革」と思われたのが、実際は「有害な規制」をもたらすものであったりします。
一方で「必要なこと」は他方で「そんなことされたらとんでもないもの」になることが少なくありません。
「公益性」というのはほんとうはよくわからないものです。そこに何か標準的な客観的な物差しがあるかに思って議論されていますが、正直言ってかなり退屈などうでもいいものが少なくありません。
歳末ですから、あれこれ考えます。
12月の衆議院議員選挙で自民党が勝利したとたん、「フクシマ」の問題はどこかへ追いやられようとしています。
3.11の約2万人の犠牲者と、死者たちへの想いは顧みられることなく、代わりが減災、防災という名の公共事業、と短絡化してはいけないように思います。
「公」が忘れても「民」まで忘れてはならない、と思うのです。