生死一如

青木新門さんの「新門日記」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~amitaabha/
の5月15日に北海道小樽市仏教会の主催した集まりで講演したことが記されている。
盛況だったようだ。
例によって2時間話されたようで、私の10歳年長としては驚異的な体力だ。

この件で頼まれて間に入ったものだから、「よかった」と心底思った。
しかし、その後の連日とも言うべき、しかも富山―東京―福島ー金沢などという滅茶苦茶な日程にまた心配している。
小樽は例外で、基本として仲介しないことにしている。
新門さんの躰が心配だからだ。
そうでなくとも、あちこちに友人が増え、あちこちから呼ばれている。
本人も「制御したい」と言いながら、諦め気味で、今や旅の途中での死も厭わない心境のようだ。
でも耳は遠くなり、両耳が普通の会話がほとんど聴こえず、補聴器をつけている。
先日は右耳だけに補聴器をつけていた。
両耳はうるさいというのが理由だ。
しかも疲れやすくなっている、とのこと。

青木さんは、よく道元の「生死一如」について、日記でもしばしば書くし、話にもよく出てくる。
そこで、小樽の講演のお礼にメールを送った。
それは以下のようなものだ。

新門さま
あいかわらずお忙しいようで、お疲れが出ないかと案じております。
小樽の講演会が盛況だったようですね。
小樽典礼の田島さん(新しく社長になられた方)から、
「たいへんよかったです」と感激のお礼のお電話をいただきました。
「生死一如」ということを日記で書かれていましたが、新門さんの書くもの話すことに接し、「そりゃ生死一如であるべきだ」と思っていましたが、それは死を考える者としてのスタンスのあり方としてそう思ってきたことのように思います。
私もようやく「生死一如」が実感できるようになってきました。
同級生が死に、姉が死に…と身近な人の死を体験してきた中で、なんとなくですが感じるようになってきました。
頭でいのちを理解しようとすると、どうしても頭だけでの理解に留まります。
生きているうちは生の中でしか死を考えることがしにくいものです。
あるいは先の断絶としてしかおもいにくいように思います。
生物の個体の死といのちの連鎖は理解(学習)できても、個の死を論ずると多くの思想家、宗教家は論理破たんに陥ります。
もはや何の弁証をしているのかわからない状態に追いやられます。
一昨年のがんのステージⅣの告知から11か月後の昨年4月の姉の死に立ち合い、ふと腑に落ちる感覚を得ました。
これが新門さん言われることと同じかはわかりませんが。
姉は延命治療を本人の意思で拒絶しましたが、すでに延命治療などというものが可能な状況ではありませんでした。
最期は鎮痛剤としてのモルヒネだけで、骨と皮だけの状態になりました。
最期は「多臓器不全」の状態でした。 告知を受けた段階では5年は無理でも後3年でも、という願いがありました。
しかし、最終段階で骨と皮だけになった姉の躰をさすりながら、これ以上のむごさを早く終わらせないとかわいそうだという想いにかられました。 私は、近年、「人間は老も死も自己決定できない」ということを主張しています。 生も死も苦しさも含めて、あるがままに受け入れる以外はないのだ、という想いを強くしています。 どんな死だからいい、悪いがあるわけではない。 すべての死者は尊厳をもって弔われる権利がある。それが「基本的人権」の根幹をなす。 などと憲法まで持ち出して強引に言い放っています。 どんないのちにも尊厳がある、ということの同意のこととして言っているのですが… 私の母は3年前(姉の告知の1年前)99歳の1か月手前で「老衰」で死にました。 15年間の認知症の末でした。 いま、高齢であればあるほど認知症になる確率は高く、多くが弔われるのではなく、死体処理されるのが普通になりつつあります。 こういう事態に抗するには、ひたすら、例外のない「いのちの尊厳」を言い張る以外にないように思っています。 今の葬儀には生者の思い上がりと社会に無価値と思われるものへの蔑視、差別意識が露骨に出ているように思います。 おそらくそうした風潮に嫌気をさしている人たちが、新門さんの話に共感し、笑い、泣き、しているのではないでしょうか。 「終活」ブームなどは、高齢者への脅しを商売にしているようで、胡散臭いものです。 妄言を書き連ねてしまいました。 きっと新門さんから「おまえはまだわかっていない」と嗤われること必至でしょう。 小樽の講演会のお礼がとんだ方向にずれてしまいました。 もし、時間が許せば勉強会に久しぶりにお顔拝見にうかがうつもりでおります。 碑文谷 創
後日談として言えば、一昨日の5月19日の18時からの新門塾(東京浅草橋の西舘好子さんが主宰するNPO法人日本子守唄協会)に久しぶりに顔を出してお会いした。
疲れているとのこと、ちょっと心配。
当日は医師の帯津良一先生http://www.obitsusankei.or.jp/
と対談される予定だったが帯津先生が来られなくなった。
いつもの2時間の勢いはなく、正味30分、なんとか60分で終わり、その後は西舘さんたちの手作りのソウメンやらなんやらのご馳走にあずかりながらみんなで懇談。
死の現場のもつ大切さをいつものように強調されていた。
「死は頭で理解することではない」ということは体験とともに新門さんから20年以上前から繰り返し教えられたことだ。
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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/