安全保障関連法がついに立法化。
これを受けて自衛隊はPKO派遣軍の軍備拡充に早速乗り出した。
南スーダンで派遣部隊に「駆けつけ警護」の任務追加とその場合の「武器使用基準」の緩和である。
これは派遣部隊が紛争の前線に立って、「普通の」国の派遣部隊と同じく、同じ軍備で戦闘する事態を想定したものである。
これまでもイラク等への自衛隊派遣で自衛隊員に大きな精神障害を与え、自死に追い込んだ事例が指摘されている。
戦闘参加は外的に銃殺される、というだけではなく、戦闘員の精神もむしばむ、極めて危険度の高いものである。
これは日本だけのことではない。
戦後サナトロジーが注目されたのは朝鮮戦争、ベトナム戦争において生死の第一線に置かれた帰還兵の精神的障害が大きな契機になっている。
今回、安全保障関連法案が注目されたのは、単に「憲法9条」の問題だけではない。
憲法9条は実質的に戦後解釈改憲が行われてきた。
純粋に守られてきたわけではない。
9条を素直に読めば、近代兵器で武装した自衛隊自体を「合憲」とはけっして言えない。
ただ、法は常に現実状況に置かれ、そのなかで解釈される。
しかしそれは「自衛」の範囲で、というのがこれまでの話であった。
「集団的自衛権」というのは、もはや「自衛」の範囲ではない、憲法違反だというのが法曹界がこぞって反対にまわった理由である。
そこで出てきたのが「9条改正論」で、9条を変えるならかまわない、と読める。
無論、総理も9条を改正したいのが本意だが、難しいので法律で行うという理屈で、もともと憲法論議では無理を承知だったのに違いない。
そこで出たのが国際状況の変化に対応する「抑止力」で、「日本の平和を守るため」と言ってきた。
議論されたように「抑止力」というのは歯止めがない。軍備拡張は際限なく進む可能性がある。「軍事力」の発動に「存立危機」という歯止めを与えたというが、それは時の政府の恣意である。国会承認と言っても、第2次大戦の翼賛体制になれば、民主主義の名で行われることになる。そうした恣意を許さないのが本来憲法の意味なのだ。
「仮想敵国」とされた中国が軍備拡張を進めれば、潜在的抑止力もそれに応じて拡張される。
軍事衝突は暴発が怖い。ミサイル一つ間違って発射されたらどうなるか。
日本国民はもとより中国国民も危険に晒される。
日本国民が今回の安全保障関連法に多くが反対したのは「戦争の臭い」ではなかろうか。
第2次大戦が教えてくれた最大のものの一つは、国家間の対立には政治的につくられた大義しかなく、民衆の利益をことごとく損なう、ということだ。
日本の「大東亜共栄圏」に大義がなかったように、欧米列強にも大義はなかった。
「民主主義を守る」と言うのを突き詰めればそれはすべての人間の尊厳に行き着く。
「民衆の無差別爆撃」という発想は出るはずがない。欧米列強の大義もしょせんは政治のデモクラシーで人民のデモクラシーではなかったことを立証している。
政治の恣意に軍事力行使が委ねられる、というのは極めて危険なのだ。
自衛隊に対する評価は東日本大震災で高まった。
今回の茨城や東北の大水害でも自衛隊の存在が大きかった。
公平に見て自然災害が生ずれば、最大10万人を動員できる自衛隊抜きで災害後にまったく対応できない。
その意味では国民生活の安全の大きな一翼を担っている。
だがその民衆の評価を国際政治の道具にすることへの認容に結び付けては断じてならない。
戦闘こそ免れたがPKO派遣を原因にして数十人の自衛隊員が自死したのだ。今彼らがもっと危険に晒される事態になった。
「冷戦」はその最たるものであったが、戦争ゲームは辞めなければならない。