机の上(周りもそうだが)ごった返しになっている。
資料を捜すので掘り返していたら、「中外日報」の7月22日号が出てきた。
その「提言」に既知の人の第1回が掲載されていた。
この方、この間に僧侶の在り方に関する本も出され、僧侶研修にも活躍されているようだ。
寺の外から寺を見る人の意見は貴重である。
しかもこの人は僧侶と一緒に活動されたから、いろいろな僧侶の人なりも結構見てきた方である。
ここでの指摘は的を射ている。
「いまの中高生が戦争の話を聞いて響かないように見えるのは、彼らは彼らで、大変な時代に生きているからではないか」
と中高年の若者への「甘やかされた世代」「温室でぬくぬくと生きている」という「固定観念」に異議を申し立てる。
それはそれでいい。
「戦争体験」世代にしろ、その「体験」は貴重だが、戦争全体から見れば「部分体験者」でしかない、という事実に規定されているし、それぞれの世代が時代、世代の歪みを背負っていて、比較の対象とはならない。
どっちが過酷か、を個人レベルで比較できない。
戦争世代には犠牲もあったが翼賛、加担もあった、それを含めて考えないと「戦争」の実相は見えないだろう。
私が「戦争責任」を若い時代から問うてきた時に心していたのは、「今の安全な戦後だから言える」というものではダメだ、ということであった。
時代のせいにもしたくなかったが、その時代がどうであったかもきちんと切開して、都合の悪いことも見ていかなくては、と思っていた。
今もそう思う。
筆者が大人の先入観を批判して、今の若者が、競争が「昭和の頃より激化し日々が苦しい」のかもしれない、という見方を提示するのは、とても大切だと思う。
私は団塊世代の直前で「競争」とはおよそ無縁な世代であったが、それでも若い時は日々息苦しかった。
私も「戦争を知らない」第一世代であったから、よく年長者には「甘い」と言われた。
だが、「中外日報」という宗教者、特に仏教関係者を主とする購読者である新聞に寄稿したせいであろうが、結びに
「競争主義の対極にある寺社がまず、大人たちの色眼鏡をはずす役割を担うべきなのだ」とあるのは?と思った。
それは日本の宗教が、一部を除いて大半が戦争協力したという事実をきちんと切開できていない、ということだけではない。
これは寺社だけに負わせる課題ではないからだ。
寺社に期待するのは期待しすぎであるし、自らの責任を放擲しかねないことだと思う。
寺社の体質に問題があるとしても、ここまで言うのは、「何でも宗教の問題にする」と批判する側の安易さにつながらないか。
そんな感想をもった。