私の書くものを知っている方にとっては「また同じことを書いている」と思われるだろう。
同じ人間が書くものだから基本的ラインは同じであることは了解いただきたい。
但し、書くものによって少しずつ例証などが変わっている。その点に注目して読んでいただけると幸いである。
本稿のもとになっているのは2010(平成22)年に神社神道の『月刊若木』に寄稿したものであるため、神道者を意識している。
3回に分けて掲載する。
第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの
第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来
第3回 日本人の死生観と神葬祭
※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。
揺れ動く日本人の死生観 変わる葬送 第1回
①葬送は戦後二度目の転換期
日本の葬儀は太平洋戦争後に二度の大きな変化を経験している。
今、ちょうどその2回目の変化の途中にある。
最初は昭和30年代以降の高度経済成長期であり、第二は平成3年のバブル景気崩壊に始まる。
言うならば
日本経済の大転換期に葬送も合わせて大きな変化をしてきた
と言えよう。
高度経済成長期には祭壇の大型化に象徴される葬儀の社会儀礼偏重の肥大化、大都市周辺での核家族用の事業型墓地の開発が進んだ。
バブル崩壊に伴い、「家族葬」に象徴される葬式の小型化、個人化、自宅葬中心から斎場(葬儀会館)葬へと変化した。
墓では跡継ぎを必要としない永代供養墓(合葬墓、合葬式墓地)、散骨(自然葬)、樹木葬と多様化が一挙に進んだ。
②高度経済成長が招いたもの
戦争および戦争直後に、国民のほとんどが近親者の死を体験しながら、満足な弔いができなかったという大きな悔いを残していた。
経済的に復興した後、その悔しさを取り返すように、人並みの葬送を求めるあまりに、肥大化、奢侈化を招いた…
という不幸が高度経済成長期にはあるように思う。
しかしこの時期、急激な都市化が進み、戦争直後は郡部人口が8割、都市部人口が2割であった日本の人口構成が逆転し、都市部人口が多くなり、今日の地方の疲弊、過疎化を生む源となった。
日本は経済成長と引き換えに地域共同体の繋がり、血縁を中心とした「家」の紐帯を失う方向へ舵を切ったのである。
「葬儀・告別式」は、戦前の大都市部では既に出現しているが、全国に普及したのはこの時期である。
各地に残っていた死者を親族、地域の人が葬列を組んで送る野辺送りが姿を消して告別式に代わり、葬列の代わりに宮型霊柩車が走り、告別式の装飾壇として大きな祭壇が葬儀場に置かれた。
葬式を出す家の前に家紋が入った提灯、墓石に家紋が彫られるのは、華族や士族でもないかぎり一般の庶民が使うようになったのは昭和30年代以降のことである。
葬式の会葬者の増加は、大型祭壇とともに弔いの立派さと錯覚された。
その結果、バブル期の最後には、故人を知る会葬者はわずか3割であり、生前の故人を知らない会葬者が7割を占めるという奇異な現象を招いた。
つまり悲しみを共有しない人が大多数で、悲しみを抱えた遺族が、自身の弔いを横に置いて、第三者の会葬者に失礼がないように気苦労するという、葬式本来の意味から外れた方向に向かったのである。
仏教の戒名(法名)、院号問題が起こるのもこの時期である。
戦後の農地解放により大土地所有者であった仏教寺院が、戦後の占領軍による財源を失い、やはり大土地所有者であった檀家総代等の有力支援者が経済的に没落して、困窮の底にあった。
高度経済成長を迎え、その仏教寺院が、経済の民主化に基づく庶民の院号要求という前に金銭の取引による院号売買という禁じ手に手を出したことによる。
庶民は大きな祭壇だけではなく、死後名の立派さも求めたのである。
確かにこの時代、日本は経済的に大成功した。
GNP世界第2位の経済大国となり、戦前からの課題であった庶民の経済的困窮を乗り越えたかに見えた。
医療も発達し、乳幼児の死亡率も大幅に減少し、長寿化を達成した。
しかし、失ったものも少なくない。
失ったものは自然と人間の調和であり、人間の暮らしを通した絆、連帯であり、死を見ないようにしたいのちの生に偏した考え方が主流となったことである。(続)