遺族にとっての別れ、友人・知人にとっての別れ

最近、2つの葬儀に出た。
一つは知人の配偶者の、もう一つは知人の葬儀であった。

2つの葬儀に共通していたのは、出棺の前の最後のお別れ(お別れの儀)に充分な時間をとっていたことであった。

参列者が一人ひとり、思い思いに遺体と対面して別れを告げていた。
一人ひとりが故人とそれぞれの関係を結んでいたのだろう。
その別れの仕方は実に多様であった。

直立して顔を見て深く合掌する人、
撫でるように顔を触る人、
立ち去り難い表情を見せる人、
すがりつきたい想いを堪えて立ち竦む人…。

ほんとうにさまざまな別れがそこにはあった。

その別れを見ていて、故人にはその参列者一人ひとりとの深い関係があり、その生を奥深くつくっていたのであろうことが実感できるものであった。
おそらくどんな人であれ、関係の深さ、広さには違いがあるだろうが、家族以外の人とさまざまな縁を結び人生を生きているのだと思う。

父の葬儀でもそうであった。
ほんとうに多様な人が湧き出てきたような気がしたものである。
そこには息子である私の知らない父の人間関係があった。
私は思わず父に嫉妬した。

家族といっても本人の全てを知っているわけはない。
本人の全ての人間関係を把握しているわけではない。
名前は仮に知っていたとしても、その関係がどんなものであったか正確に知るわけではない。
本人には本人にしか知りえない広がりと深さをもった人間関係があり、人生があるのだと思う。

父の葬儀のときに、参列者の顔の分だけ父がいたように感じた。
もちろんその中には、いわゆる義理や仕事の付き合いだけで来た人もいたであろう。
だからそれは息子としての、遺族としての主観でしかないのだが、父が私自身の父、家族にとっての父というだけではなく、一人の人間として屹立して生きたのだという実感、尊敬のようなものを感じていた。

2つの葬儀でも同じような感想をもった。

故人が、さまざまな人からさまざまな形で愛されたのであろうことが、参列者の表情から、所作からうかがえるものであった。

参列者のお別れが一巡した後、特に親しくしていた様子の仲間が数人集まり、柩に手をかけ、ある人は頭を触り、ある人は上の天井を見つめ、あるいはお互いに目で会話していた。

最後に家族が柩の周りに集まった。
周囲の人間も自然にわかる。
家族にとって本人が、特別に位相を異にした、かけがえのない人間であったことが。

だからしばらく家族のなすままに任せる。
そこには本人と遺族という独自の空間が自ずとつくられる。

それがどんなに愁嘆場になろうとけっして異質ではない。
本人をよく知る人たちにとっては、遺族がどのように振る舞おうとも、その遺族の気持ちが納得できている。
遠く囲むようにして、静かに本人と遺族との別れを見守る。
それが共感というものだろう。

私が出た葬式は特別なものではない。
それぞれの葬式ではこういったことが、それぞれの形で行われているのだと思う。

違うとするならば、多くの葬儀では出棺の時間を気にするあまり、最後のお別れに充分な時間を割かないことである。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/