仏教葬儀で「授戒」がなぜ重視されたか?上-戒名、布施問題の多角的アプローチ①

「僧侶派遣」の話題も賑々しい。
少し基本的に戒名、布施問題をさまざまな角度で考えてみたい。
過去に書いたものも改めて取り上げていることを予めお断りする。


戒名、布施問題の多角的アプローチ


第1回 仏教葬儀でなぜ「授戒」が重視されたか?(上)

イニシエーション

20世紀の初め、アルノルト・ファン・ヘネップは『通過儀礼』を著し、
「あるグループから他のグループへ移るには、われわれの社会における特定の儀礼──洗礼、叙品式など──にみられるのと同様な通過の際の特別な様相を呈する」
と看破した。

彼は、人生の
「区切りの一つ一つについて儀式が存在するが、その目的とするところは同じである。つまり、個人をある特定のステータスから別の、やはり特定のステータスへと通過させることに目的がある。
目的が同じであるため、その達成手段は、細部に至るまで同じというわけではないにしても、少なくとも類似するようになるのである」
と分析し、
「出生、幼年期、社会的成熟期、婚約、結婚、妊娠、出産、父親になること、宗教集団への加入礼および葬儀などの儀式が一般的に似ているのはこうした事情による」
とし、
「これらの儀式はすべて皆同一のカテゴリーに組み入れるのが合理的」
として儀礼研究に体系を与えた。

そして彼は、
「通過儀礼はさらに分離儀礼、過渡儀礼、および統合儀礼に分析される」
とした。

あまりに有名になった儀礼の分類であるが、彼は葬式についても一章を設けて詳しく通過儀礼の要素をもつことを分析している。
その冒頭で次のように述べる。

「とむらいの儀式についてまず考えられるのは、主流をなしているのは分離儀礼であって、これに対し過渡および統合の儀礼はあまり発達していないのではないか、という事である。ところが実例にあたってみるとそうではなくて、分離儀礼は数も少なく単純で、かえって過渡期の儀礼の方が持続期間も長く、複雑化しており、それだけを独立したものと認めてもよい位のものもある。さらにまた、葬いの儀礼の中で最も複雑化しかつまた重要視されるのは、死者を死者の世界に統合させる儀礼である」

これは極めて示唆に富んでいる。

統合儀礼、つまり死者の世界へ加入させるための儀礼が重要な構成要素となっていると見ているのである。

私は葬儀を通過儀礼の一類型であることを否定するものではないが、その一つにファン・ヘネップが分類する加入礼として葬儀を見ると、よりよく明らかになるのではないか、というアイディアをもっている。

ここで「加入礼」というのはイニシエーションの訳である。

ちなみにイニシエーションとは、
「 1開始、創始、創業、 2a加入、入会、入門、b入会(門)式、 3a手ほどき、手引き、b秘伝を伝えること、伝授」
(研究社『新英和中辞典』)

と説明されている語である。
文化人類学的には訳す場合には「加入礼」とされるのが一般的である。

成人式のように、古代社会において、古い子どもの世界から新たに成人した世界に加入するに際して、苦行や儀礼を通じて新たな世界に導かれることを言う。

説明的に訳すとするならば
「秘伝を伝授することにより新しい集団に導いて加入させるための儀礼」
とでもなるだろうか。

私は、このところ、戒名について考えてきた。
今一つ、なぜ戒名が葬式において重要なのか、人々が関心をもつのか、自分で納得できなかった。

そんなときエリアーデの『生と再生─イニシエーションの宗教的意義』に出会った。
葬式について論じたものではないが、読んでいて、興奮してきた。

エリアーデは前近代社会のこととして論じているのだが、それは死滅した宗教世界のことではなく、死と葬儀においては根本のところで息づいているのではないかという想いを強くしたからだ。

河合隼雄も『生と死の接点』で
「近代人は…社会的な儀式としてのイニシエーションは棄て去ったが、その無意識内には、イニシエーションの元型的なパターンが存在し、われわれに今なお作用を与えている」
と述べる。

だが、儀礼そのものに仮託する心理も消え去っているわけではないように思う。

特に、日本の仏教葬儀とその中心を占める授戒を解釈する際に、イニシエーションと考えると、見えてくるものがあるように思われる。

予めお断りしておくが、これは思いつきである。まだ考えが詰められていないが、以下、このアイディアを説明してみることにする。

葬儀はなぜ切実なのか?

葬儀は、古い世界である生前の人間が死に、新しく死後の世界に入るためには必要なイニシエーションとして考えられていたのではないか。
古い人間である身体としての人間が死に、新しく霊としての人間が生きるための加入礼の秘儀がまさに葬儀であったのではないか。

死者が出る。
あくまで2人称の死として起こった場合である。

遺族は葬儀を行うことに拘る。
このわれわれがよく知っている拘りはどうして生ずるのであろうか。
この点が私が拘るところである。

ここには「弔う気持ちは人間の自然の感情」と説明される以上の拘りがあるように思われる。

その葬儀をすることへの遺族の拘りは多くの場合、今でも実に切実である。

これは何故なのだろうか。

葬儀をしないと、死者は行き場所を失うからではないのか。

日本の民俗的観念では、弔われず、行き場所を失った死霊は、しばしば生者に対して害をもたらすと信じられてきた。

死者が行き場所を失うことは、遺された者としても死者との関係づけができないまま留め置かれることになり、これが遺族に大いなる不安をもたらすのだろう。

したがって死者を死後の世界に加入させることは遺族に課せられた大いなる義務としてあるのではないだろうか。

葬儀において、分離儀礼、つまり死者を古い生前の世界と分離させることは重要であるが、分離は既に死によって発生したのであるから、より重要になるのは死者を新しい世界に移行させることにある。
分離は加入のために残存しているものをせいぜい切り離すためのものでしかない。
あるいは、加入のための条件を整えるためのものであろう。

死者を新しい世界である死後の世界に入らせるためのイニシエーションは、日本の民衆にとっては、長く日本社会にコンセンサスを作ってきた仏教葬儀を通して行われると理解されてきたのだと思う。
その理解はかなり薄くなったとはいえ、現在でも必ずしも完全になくなったわけではない。

だから、この場合、死者や遺族が仏教徒であるかどうかはあまり問題とされない。

仏教葬儀が死者を死後の世界に加入させるための儀礼として日本人の中に理解されてきたという事実が重要なのである。
これが現在でもなお8割を超す仏教葬儀ということで現実化しているのであろう。

もちろんこの歴史的背景としては、仏教の民衆化が葬祭を中心になされたことや、江戸時代の寺檀制度の法制化がある。

この結果、
重要なのは、日本の民衆にとって、仏教徒だから仏教儀礼によるイニシエーションが選択されたのではなく、死後の世界に入るために仏教葬儀があると理解されたことである。

そうでなければ、明治維新により寺檀制度が法制的位置づけを失って約150年を経てもなお、また真正の仏教徒が3割以下になっても、依然として仏教葬儀が8割という事態を説明しきれない。
(この項続く)

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/