布施と寺の関係―戒名、布施問題の多角的アプローチ⑥

布施と寺の関係

 

「布施」は理念的には、

「施す人も、施される人も、施す物品も本来的に空であり、執着心を離れてなされるべきもの」

とされている。

本質的には、仏法を説く「法施(ほっせ)」も布施としてなされるものであり、見返りを期待したものではない。
また、その僧を支えるものとしてなされる「財施(ざいせ)」も「布施」としてなされるものであり、何らかの対価、見返りを期待したものではない。
また僧や仏教徒の布施は寺院の関係を超える。地域社会に精神的、身体的、経済的、人間関係的に不安や困窮し困難にある人や事態に対して布施する。これが「無畏施(むいせ)」である。

近年、若い僧侶を中心に災害支援、被災者の物心支援、生活困窮者への支援、終末期にある病者、高齢者の支援、貧困や疎外された子どもの支援、海外の弱者への支援…などさまざまな活動が積極的に行われるようになってきている。

以上が前回のまとめである。

 

前回も紹介したように、

「布施」について『岩波仏教辞典』は後段で
転じて、僧侶に対して施し与えられる金品をいう。

と極めて現実的な解釈を示した。
これは「布施」が日本仏教においては寺檀(じだん)制度を支える財政基盤として機能したことを示している。

 

そこで「檀家制度」における布施の機能を見る前に、そもそも寺という組織について考えてみたい。
これは過去がどうあったかではなく、現代において寺という組織が機能するために、どういう検討が必要か、という課題である。

 

「寺」という組織のあり方

 

僧は個だけではなく、仏教集団、寺院、教団…という組織をもつ以上、「組織のあり方」を考えざるを得ない。

これは仏教寺院だけではなくキリスト教会も必然的に抱える問題である。

 

第1は、活動理念である。

一般に宗教教団の場合、教義であり、その教義の普及により信者の獲得となる。

だが組織が小さく、民衆の近く位置するに伴い、活動理念はより具体的にされないと、それを支える意識が不明確になる。

また、教義というのも歴史的産物である以上、常に問い返しが必要とされる。
問い返しのない教義は保存はされるかもしれないが、単なる遺物と化し、活きて働かないものとなる。

 

第2は、組織運営である。

宗教団体では、とかく上から下、という形態が見られる。
しかし、上から下へ「教える」という一方通行だけではうまくいくわけがない。

下からの信頼、信仰が強くなければ組織は機能しない。

下から、つまり信者側からの熱意ある活動を組織に活かさないと組織は活性化しない。


実際に、住職や牧師中心で成員である信者が活性化していない寺や教会は活き活きとしていない。

 

第3は、活動の透明化である。

 

その組織が何をしようとしているのか、それをどうしようとしているのかを上だけではなく下まで認識を共有しなければならない。

例えば寺の行事一つとっても、これが欠けては成立しない。


これは、一方的な考えの押しつけになってはいけない。
成員個々の多様な考えは尊重されるべきである。

だが、個々に遠慮して何も発言しない、というのもまたおかしい。

 

第4は、組織の財政基盤の確立である。

 

現実的に組織運営する以上、その活動を可能とする財政的基盤を作らなければならない。

また、その財政は組織の形態によって変わる。
ボランティアがお金と労力だけで係わる場合があるが、それはしばしば不安定で、また負担が偏ることで継続性が困難になる。

その規模に合った人件費、運営費が確保される必要がある。


理念が正しくとも成員だけで維持できる組織というのは少ない。

また成員の経済力もさまざまである。
成員が過負担になれば組織から遠のく。

企業ではないのだから、それぞれに合った負担ということが許される必要がある。貧困者を閉めだす寺なんて最悪である。

成員だけで無理なら協賛、寄附が必要となる。
これは一部の資産家や企業に頼り過ぎてはだめである。
石材業者、葬祭業者等に頼り過ぎれば癒着も生じるし、偏り過ぎるとそこが撤退したとたんに成り立たなくなる。
薄く、広く求める必要がある。


戦後の農地解放で寺は経済的な打撃を受けた。
寺自体が大地主であったのが土地を取られ、大檀家が地主、大農家に偏ったため、大檀家が没落し、財政基盤を喪失した、という寺は多い。


※これが高度経済成長期の「戒名(院号)」料問題の背景となっている。


「布施」問題はこのコンテキストで正しく語られる必要がある。


「布施は檀家制度が崩壊したので根拠がなくなった」と言う人もいるが、寺は危機にあるが崩壊、消滅したわけではない。

これからの寺を検討すべき課題として「布施」問題はきちんと、中途半端ではなく検討される必要がある。

仏教界の議論はまだまだである。

寺のあり方を問う中できちんと議論されるべきである、と私は思う。
 

そうでないと苦労している僧侶たちを見捨てることになる。

 

第5は会計の公開である。

 

今の寺を見ていると経済的に自立している寺は全体の3割もないだろう。
むしろ財政実態を公開し、どうしたらいいかを皆で考えることから再出発すべきだろう。成員であることの自覚もできる。

また、そのためには寺の運営実態を透明化し、寺が何をしていくべきかの目標を共有することが必要だ。

私の知っている寺では、個人名は伏せるが、葬儀のお布施も公開している。

100万円以上出す人もいれば、その人にお金がなく、寺が負担して葬儀を出すこともある。

平均で20万円代であった。

自分たちの葬儀だけではなく、信者全体の葬儀を可能にするために葬儀代がまさに布施として活用されている。
会計公開は成員の自覚につながるし、寺が公共性を確保するための義務でもある。

 

第6は組織の規律である。

 

組織が崩れるのは自己規律がないことからきていることが多い。


組織運営が一部の者の都合がいいように偏ったり、運営が公平を欠いたり、偏見に基づいた差別やいじめが行われたり、お金の使い方がいい加減であったり、私欲がまかりとおるものであったり…


およそ最低限の規律が確立され、常に第三者の点検に耐え得るものである必要がある。


あたりまえのように見えるが、相当意識的にしないと規律保持は難しい。

また、規律が崩れると組織内はもとより対外的信用も崩れる。
雑誌やテレビのワイドショーで寺や僧侶の悪い話題が取り上げられるのは、規律が失われた寺の問題であることが多い。

 

 

檀家制度成立以前

 

寺の組織は「檀家」制度によって支えられてきた。

といっても本格化は江戸中期以降のことで、歴史的に中世までは寺の檀那(だんな)は権力者、貴族、武家に偏していた。

ある意味で権力者の権威の誇示に寺は利用されてきた。

また、寺は宗教的=世俗的権威ともなり一大勢力ともなった。
これが戦国時代に信長が仏教団と激しく対立、排撃されるところともなった。


仏教は権力者が檀那であった時代はある程度は拡がったが、民衆の中に定着したとは言えない。

 

 もっとも中世以降になるとさまざまな僧が民衆へのアプローチを行うようになるが、それは教団としての組織的なものではなかった。


例えば、平安時代の
938年、阿弥陀聖、市聖と呼ばれ中世以降の高野聖、民間浄土教行者である念仏聖の先駆けとなった空也(972年没)が京で念仏を広める。

これ以降、民間仏教の「聖(ひじり)」と言われる僧が民衆の中に入り、死者儀礼や農耕儀礼と結びつき大衆化していった。

 

 

「檀那(旦那)」とは、

サンスクリット語のdânaに相当する音写。もともとは、施し・布施を意味するが、わが国では、寺院や僧侶に布施・寄進をするパトロン、つまり檀越(だんおつ)・檀家と同じ意味で用いられた。布施を受ける寺のことは〈檀那寺(だんなでら)〉と呼ばれる。檀家はそこで死後の菩提(ぼだい)を弔ってもらうことになるので〈菩提寺(ぼだいじ)〉とも呼ばれる。なお檀那は、家を支えるパトロンとか、恩恵を与えてくれる者の意味から、既婚の男子、特に夫や主筋の相手に対する一種の敬称とも転じ、〈旦那〉とも書かれるようになった。(岩波仏教辞典)

 

「戦国時代」とは、室町後期の応仁の乱から織豊政権誕生による天下統一に至るまでの時代のことである。

政治的には乱れ、飢饉、戦乱で民衆は苦しんだ。
一方それまでは貴族や武士の下で翻弄されていた民衆が農業生産力を向上し、定住し、近世の村をつくり、一定の社会的地位を向上させた時期にも相当する。


「戦国仏教」という言葉もあるように。この時期を中心に仏教の民衆化は進む。

それを可能としたのが「葬祭仏教」であった。

(以下続く)

☆近況報告と予告

①仏教タイムズ2017年2月16日号
http://www.bukkyo-times.co.jp/pg125.html
に「僧侶派遣の現状と背景を追う(最終回)仏教界への提言―聖たちの覚悟を現代に 碑文谷創(葬送ジャーナリスト)」
。タイトルは編集部が付けたもである。全日本仏教会の「法務執行に関する協議会」の中間報告を読んではいるが、直接は触れていない。1800字という制限であったので、問題の根幹だけに絞って書いた。記事はネット紹介。まだ掲載紙が手元に届いていない。

②日本消費者協会第11回「葬儀に関するアンケート調査」(2017年1月)
仏教タイムス2月17日号には
2017/1/19
「日本消費者協会・葬祭アンケート 葬儀費用、やや増加 相談は寺院から業者 仏式葬儀 首都圏で減少気味」
というレポートがあり、これはネットで読める。
中外日報も報じている。2017年2月3日付

「僧侶と葬儀の関係希薄に 日本消費者協会調査」

http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20170203-001.html
この日本消費者協会調査は入手したので、後日きちんと分析し、書く。
問題も多いこの調査、読み方も含めて提示したいと思う。
何回かに分けて書くことになるだろう。


③橳島次郎『これからの死に方 (平凡社新書)』

http://booklog.jp/item/1/4582858082
を読んだ。
なかなか切れ味のいい本だ。
多くの人に読んでほしい本。
中には?の部分もあるので、これについては問題点も含めていずれ書評したい。

 

 

 

 

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/