2011年の3月、東日本大震災について過去書いた原稿を少しずつ紹介する。
3.11
突然、激しく床が揺れた。
建物全体がゆっくり大きく横に揺れる。
慌てて本棚を支える。
本棚から本がドサドサと落ちる。
でもそれにかまっている余裕はなかった。
経験したことのない揺れにどうすることもできず、ただ「凄い!」「危ない!」と言うだけ。
交通機関は全て停止した。
しかし、その東京での私の驚きは、後に次第に判明する事態に比べるとたわいもない出来事であった。
宮城県の北部、岩手県と接する栗原市が震度7であるとテレビは伝えていた。
何時だったかわからない。
テレビを見ていた者が「ワーッ」と悲鳴をあげた。
テレビ画面では、水の大群が田畑や家を巻き込み、なぎ倒しながら侵食していくさまが映し出されていた。
何かとてつもないことが起こっていた。
夜、テレビでは水の上の倒壊した家屋が火に包まれている光景が映し出されていた。
「気仙沼が燃えています!」
空中から実況する記者が叫んでいた。
昔から知っている街が闇の中、燃えていた。
3月11日、瞬時にして太平洋岸の東北一帯の人、家、街、村、暮らしが壊れ、喪われた。
翌日、東電の原子力発電所が爆発。人々は住みなれた町を追われた。
(2011年11月記)
(
広告