戒名、布施の問題を取り上げてきたが、そもそも歴史的に「葬祭仏教」とはどう展開されたかについて数回に分けて書く。
葬祭仏教の誕生
■「葬式仏教」の誕生
すぐれて「日本教」とでもいうべき「生活仏教」の形成に大きく影響を与えたのが「葬式仏教」であった。
寺は室町時代後期の「近世」の誕生と共に民衆、地域社会に入り込む。
仏教は6世紀に日本に紹介されたとはいえ、近世以前は、基本は貴族、そして武家のための宗教であり、民衆の宗教ではなかった。
葬祭仏教化することによって仏教は民衆社会に土着し、外来仏教であることをやめたのである。
江戸時代中期に至り、キリシタン禁制を名目としての民衆管理、行政下におくために宗門改め、いわゆる寺請制度が定められ、寺と民衆との関係では檀家制度となった。
幕府・藩は、行政的には民衆を支配したが、それだけでは足りず、宗教の力、具体的には民衆化した仏教寺院の力を必要としたのである。
これにより仏教は国教となり、明治維新によって廃されるまでそのシステムは継続した。
明治維新により行政的位置づけを失ったからといって、檀家制度がなくなったわけではなかった。
法制的な位置づけは失ったものの、民衆との関係では生き続けたのである。
そこには仏教がすでに「外来宗教」ではなく、「生活仏教」として民衆の中に内在化していたことを示す。
この内在化にとってもっとも影響を与えたのが、仏教思想というよりは、葬祭との関係であった。
民俗学者の宮田登は『霊魂と旅のフォークロア』(吉川弘文館)で、近世以前の日本仏教の葬送儀礼における役割を「タマシズメ」、つまり死者の霊魂があの世に移行するのを守る「ある意味で呪術的な機能」にあったと考える。
(死によって)肉体を離れた霊魂がさまようと、この世に災いをもたらす恐れがあると考えられていたことは、前にも述べた。日本仏教は、この人びとの原初的な恐れの感情に応え、霊魂を落ち着かせる儀礼を行ったのである。
近世に檀家制度が定着する以前、民衆の葬送に携わったのは、「聖」と呼ばれる、特定の宗派に属さない民間の宗教者たちであった。彼らは、行き倒れの死体を埋め、死者の霊魂が鎮まるように念仏を唱えながら諸国を回った。(略)
葬儀などで読まれる念仏やお経の意味は、おそらく民衆には理解されず、霊魂をあの世に送るための、一種の呪文と考えられていたであろう。また戒名も、言霊、つまり言葉や文字のもつ不思議な力によって霊を鎮めるという役割をはたすものであったと考えられる。
日本仏教の各宗派は庶民の習俗を取り入れて定着していったが、宗派性の濃い浄土真宗は、もっぱら伝統的な慣習を忌避する傾向があった。
中世においても、光明真言や土砂加持という密教的要素が取り入れられ、葬送儀礼で尊重されたのは、死者の滅罪のためもあったろうが、死の穢れ、および伝染を防御するための呪術的機能が求められたからなのかもしれない。
それに浄土教の阿弥陀信仰、浄土思想が貴族の葬送儀礼で大きな影響力をもったが、これと民衆との関係は全てが解明されているわけではない。
(この項続く)