バブル文化についてつらつら―雑感②

今ウケるバブル文化

 

今朝20170514

の朝日から気になった言葉を抜いてみた続き。
(ディジタルから引用しているので、本紙とは一部異なる)

「バブル景気」は80年代後半から91年まで続く。911月に崩壊するのだが、気分としては91年いっぱい引きずり、すぐまた戻るだろうと思っていたが、95年頃から不況を実感し、宝石が売れなくなり、葬送の傾向も個人化に傾斜していく。
個人的には8691年というのは、出版編集という編集者の仕事から苦手な管理職的な仕事の負担が増え、嫌気がさし、会社を辞め、ジャーナリストとして独立した時期に照応する。極めて屈折の振幅が大きい時期であった。何せ「異常」な時期であった。

 

日本がバブル景気に沸いた1980年代後半から91年ごろ、華やかな衣装で自由を謳歌(おうか)する女性に象徴される「バブル文化」が栄えた。最近、当時を再現するアイドルが現れるなど復活の兆しがある。何が魅力なのか。あの時代の功罪とは。(赤田康和)

この記事でバブル象徴とも言うべきディスコ・ジュリアナ東京が、バブル崩壊直後の91年に誕生したことを知る。
もっとも私はディスコとは無縁な生活であったが、バブルは崩壊したが気分は継続していて、崩壊が社会的認識になるのは95年くらいから、というのがわかる。
ウィキペディアには「ジュリアナ東京(ジュリアナとうきょう)は、1991平成3年)515から1994(平成6年)831までウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦にジュリアナ東京ブームを築いた伝説的なディスコである」と説明されている。94年に閉鎖というのが象徴的である。

 

大多さんは91年の「東京ラブストーリー」もプロデュース。恋人に「カンチ、セックスしよっ!」と呼びかける赤名リカ(鈴木保奈美)に世の男性はほれ込み、女性は共感した。「リカはいびつで不器用で孤独。でも前向きに生きていく。だから視聴者も感情移入したのでは」

「大多さん」とはフジテレビの常務。当寺敏腕プロデューサーとして活躍。

 

(漫画家の)柴門ふみさんは「ずっとあこがれだった欧米文化を取り込み、作品に結実。コンプレックスも消化できたのがバブル期」と話す。ただ文化が画一的で、東京に偏在していた面もあるという。「ワンレンなど皆が同じファッションだった。ネットもなく地方では見たい映画は来ないし本も限られていた」

 

なるほど、当時はネットがなかったのだ!

 

55年あたりから、多少の浮き沈みはあったが、日本社会は経済成長が続き、その最後を飾ったのがバブル景気であった。
何せ毎年のように流行がつくられ、それを追って大量消費していた。
多くが一方向に向き、例えばミニスカートが流行れば、脚が太かろうと短かろうが流行った。
ネクタイの幅が急に細いのしか出なく、今度はえらい幅の広いのしか売られない、というアパレル業界の陰謀が民衆を翻弄、民衆も流行を楽しんだ。

墓石が立派になり、ブランド石がいいとされたのも70年以降。墓石や葬儀の提灯に家紋が入るのが大流行。

喪服ならぬ礼服が幅を利かし、葬儀は遺族でもない人が黒づくめで会葬するようになる。

根拠がないのに「これがほんとう」という神話が横行。

その底には戦争期、戦争直後の苦労、欧米文化へのあこがれの大爆発があったろう。
悲しい成り上がり者の仇花がバブル文化という奴だ。

人間は悲しいかな、経済成長が上向きなときは、過去のマイナスを消そうとする。
あの戦争がなかったかのようにした。
個々にはその傷口はけっして消え去ったわけではないのに個々の世界に閉じこめ、戦争責任も曖昧にされた。

 

経済成長を美化する動きがあるが、あの世界にはさまざまな問題を内包していたし、ある意味では人間を卑しくさせた。

 

「戒名料」問題は寺の問題と非難されるが、高位とされる院号を競ってほしがったあさましい民心があって生まれた現象でもある。

95年頃よりその反発が世を覆った。

葬送の世界にいる者は葬送だけが変わったと思っているかもしれないが、そんなことはない。
あれだけ戦後復興のシンボルであったスーパーマーケットだって今苦しんでいる。

「個人化」という現象は、最初はバラバラであったが、そこにいろいろな顔があるということがこの20年でようやく見え始めたのではないか。

バブル景気の反動なのか、価格低下⇒企業のブラック化は葬送業界にも及んでいる。
不当な安売りは葬祭従事者の労働条件を悪化させている。それがひいては葬祭サービスの質の低下につながっている。

(僧侶の方のSNSの投稿を見ると、直葬でぞんざいな扱いをする葬祭業者のことが書かれていることは心配)

ここまでくると葬儀のいい悪いはもはや外形では判断できない。
個々を見るしかない。

 

しかし期待できるのは、現状に対して悩んで、迷って、考えこんでいる僧侶、葬祭ディレクターがいるということだ。

 

 

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「バブル文化についてつらつら―雑感②」への1件のフィードバック

  1. とある葬儀社員です。
    先生のブログでいつも勉強させて頂いております。
    記事にあるように現在葬儀は低価格競争が激しく、前年比での施行単価減少を施行件数増加で補うという状態が毎年続いている状況です。
    そうなると1件あたりのコスト削減が命題となり、棺などの物品では限度があるので人的コストを削る方向になっています。
    具体的には葬儀1件に担当者が関わる時間を減らす、といった形です。
    すると遺族からすれば困った時に担当者がいない、対応するまでに時間がかかるといった不満が残り結果サービスが悪いと感じるというのが実際ではないかと思います。
    「1件の葬儀に担当は一人」はどの葬儀社も打ち出していると思いますが、その担当者がその1件にかかりきりなのかは遺族には分かりません。
    場合によっては3件4件を同時に受け持っている事もあり、そうなると本当に「遺族に寄り添った」サービスができているかは自分でも疑問に思う時があります。
    私見ですが今後の葬儀は
    ・「一日一件のみで多少高いが、その分遺族にしっかり付き添う」高級志向の葬儀
    ・「サービスは最低限だけどとにかく安く、簡単な」低価格路線の直葬・一日葬
    に二極化するのではないかと考えています。
    最近JR各社がななつ星や四季島、瑞風といった高級観光列車を競って販売し、それが売れているというニュースを見た時にそう思いました。
    葬儀と旅行を同じ価値観で語るなと怒られそうですが、現在の可処分所得の差の広がりは葬儀にも関わってくる問題ではないかと思います。
    浅学ながら現場のスタッフの所感として、何かご参考になればとコメントしました。
    先生もどうぞお体を労わりながらも、時々こちらのブログで私たち後進を叱咤激励頂ければと思います。
    更新を楽しみにしていますので、どうぞご無理はなされずに。乱文失礼しました。

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