これを書いたのは2年半ほど前のことである。
今も父の死は鮮明である。
遺骨の一部は今も私の引き出しに入れてある。
今も父の死は鮮明である。
遺骨の一部は今も私の引き出しに入れてある。
父は晩年、よく「危篤だ」と自分で電話をかけてきた。
兄には別な日に「危篤」になったようだ。
要は「顔を見せろ」ということだ。
行くと息子の顔をまじまじとみつめ、
「僕が死んだらどうするか言ってみろ」
と言うのだ。
自分の意思が息子に伝わっているか、確認をするのだ。
危篤になった時のことから始まり、葬式や納骨、そして自分の書斎の本の行く末まで、全部を、私が父からそれまで何度も聞かされたとおりに言うと、
「それで頼む」
と言った。
知り合いから電話があると、
「死んでから葬式に来てもらうより、今の生きているうちに会いに来てくれ」
と見舞いを催促する。
父はあらたまった席では「私」と言ったが、少し気楽な関係では自分のことを終生「僕」と言っていた。
その父が死んでから14年。
十三回忌は2年前にしなければいけなかった計算だ。
生きていれば百歳を超えている。
死後5年目あたりから、父のことは「懐かしく」感じるようになったが、いまだに父の思い出は明徴である。
父の葬儀でとり乱しながら、私は必死に父に語りかけていたものだった。
「私は、僕は、あなたの息子でした」
と。
その言葉は、14年後の今も、私の中では少しも色あせていない。
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