「遺体論」は今回をもって最終回とする。
民俗、習俗において「遺体」とはどういう存在だったのか?―遺体論④
はじめに
古来、日本人は遺体をどうとらえていたのであろうか?
ここで葬儀習俗に残るものを手掛かりに述べるが、そういう形に定着するまで時代変遷があったはずである。
たとえば民衆が地域共同体を確立する以前はどうであったか?
都市での民衆の死体が路傍や川のほとりに棄てられていたという光景が伝えられるが、そこで民衆は人の死、そして遺体をどういう目で見ていたのだろうか?
単純に棄てられる例もあったろうが、その状況にあって、その時代の民衆は割り切ることのできない感情を抱えていたのではないか?
たとえば第二次大戦下、大陸で敗戦直後の状況で逃げまどう中で、死亡した老人や子たちの遺体を処理するために穴を掘り設けた場所に家族の遺体を置いてきた人々の心情はどうであったのか。
その時そうせざるを得なかった、遺体を火葬にして遺骨を持ち帰る時間的にも精神的にも余裕を奪われていた人たちが、その後どういう想いを抱えてきたのか。
今、私たちはその体験者の想いを記録、書かれたもので知ることができる。
戦友の死について、放置してきた人の記録もある。
あるいは家族はもとより関係者不在の中で死亡した人、名前を全く知られることなかった遺体が多くあった。
また、家族がどのように死んだのか、まったく情報がなかった人も少なくない。
名前も知られなかった遺体、飛び散った遺体が数多くあった、ということと、近親者の死についてまったく情報がなく、思いめぐらした人たちが数多くいた、ということは、同数ではなかったにせよ、裏表の面がある。
「70年以上も前の昔の話」と言われるが、私が生まれた直前から遡ること20年間の短期間に起こったことである。
歴史で言えば近現代史の話である。
私は東北人であるから、昭和の前期にあった東北大飢饉のことも想起せざるを得ない。
残って飢えた人たちだけではなく、そこにいられず逃げ出し、ある者たちは売られて関東各地に出てきた。
そこで名もなく死んでいった者たちがいた。
想像を絶する話であるが、1930年以降に生じたことは、まだその一端を記録で読むことができる。
ただ死者たちの肉声はないが。
古代の「棄葬」についても記録の多少はあるが、それについて民衆がどう考えていたか、おそらく立場によってもさまざまであろう、個々の想いを知ることは困難である。
私たちは「知らないことが多い」という地点から出発せざるを得ない。
そして今の私たちが死者たちに抱く想いが単純であり得ないように、私たちとは異なる点が多いだろうが、過去においてもけっして単純であったはずはないだろう。
ネアンダール人の3万年前以上前の墓であった北イラクのシャニダール遺跡から死者を弔い葬った跡と思える花粉が発見された。
これは死者を弔い葬る人類最古の証として注目され、私も大興奮した。
今も信じたい気持ちは強い。
(もっともその後の研究では、花粉は動物が持ち込んだ可能性も否定できないようで「明らかな証拠」とは言えないようだが)
だが、これだけは言える。
シャニダール遺跡が最古かどうかは別にして、少なくとも1万年以上前から人類は死者を葬る時に何らかの弔いの儀礼を伴ってきたことがある、ということ。
おそらく弔われないで葬られ、放置され、棄てられたことも多かったと思うが。
日本人の死についての習俗は、5千年前、数万年の話ではない。
もっと後代の話である。
それでも今から見れば充分に古い話であり、しかし、時代を経過し、その過程では変容もしたであろう、伝えられてきた話である。
そのことを前提として、その一端を見ていこう。
葬儀習俗と遺体
1)魂よびと湯灌
人が死亡したと思われると「魂よび(魂よばい)」と言われる動作が民俗では見られる。
死者の枕元であったり、屋根に上がってであったり、井戸に向かって、といろいろであるが、その人の名を呼ぶ。
死とは、魂(霊)が肉体から遊離することであると信じられていたため、魂に呼びかけ、再び肉体に戻り、再生することを願って行われた。
その後再生儀礼が、死の事実確認儀礼へと意味を変えていく。
これは最近の話であるが、例えば80年代までは病院の死の臨床現場ではよく行われたことであるが、危篤に陥ると医師は家族を病室から追い出し、患者の上に乗り心臓マッサージを試みる。
それは時にはあばら骨が折れるほどでもあった。
しばらくその行為を行った後、家族を病室に招き入れ、汗をかいたまま「手を尽くしましたが、残念ですがご臨終です」と宣告する風景はよく見られたものである。
この臨終時の心臓マッサージは再生を装った死の事実確認儀礼となっていたのである。
この魂よびの習俗から理解されることは、遺体とは魂が遊離して残された身体、つまり亡骸である。
では遺体は魂の抜けたものという理解が徹底していたかというと必ずしもそうではない。
現代の「湯灌」は古い習俗というより、在宅高齢者の入浴サービスから転じたものである。
これと異なり、かつては、
納棺するに先立って、身近な人の手で湯灌をすることが行われた。
これは死者の霊魂の浄化を願って行われたとされる。
したがって必ずしも霊魂が完全に遊離した状態に遺体があると理解されてもいなかったようである。
(実用的には、座棺が主だった時代にあって、死後硬直した死体を納棺する際、死後硬直を解くのに湯灌は役立ったといわれる。)
2)位牌と遺体
神葬祭(神道による葬儀)では、遷霊祭(せんれいさい。みたまうつし)を大事にする。
通夜に行われる儀式であるが、死者の御霊(みたま)を遺体から霊代(たましろ)である霊璽(れいじ)に移す儀式である。
霊代は、中国では儒教で用いられ、その影響を受けて仏教の位牌は誕生した。真宗では用いない。
位牌に死者の霊が宿っていると信じられ、葬儀では位牌が祭壇の中央に飾られたり、葬列や出棺の際には喪主が位牌をもったりして、極めて大事にされる。
死は、肉体から霊魂が遊離した状態であると信じられ、その霊魂を祭るのが葬儀であるから、位牌が中心になる。
ちなみに遺影が使用されて以降は遺影がむしろ中心的に扱われる傾向にある。
死者の面影という認識で霊魂観が弱くなっていることを反映している。
アメリカ等では、葬儀は遺体との別れが中心になっているのに対し、日本では、少なくとも論理的には位牌、つまり霊魂が中心になっているのが特徴的である。
3)儀式における遺体の位置
日本においても、葬儀では位牌がどちらかといえば中心になってはいるが、通夜などにおいては遺体が中心を占めている。
これは通夜(今は通夜は葬儀の逮夜、前日という理解が主流だが、かつては死亡直後の夜から葬儀前夜までが通夜であった)が生と死の境界線上にあるからである。
通夜の間は、必ずしも霊魂が肉体から完全に遊離していないという認識からであろう。
通夜では、身近な者が遺体を中心にして死者との最後の宴会を行った。
戦後の高度経済成長期以降の葬儀式・告別式となると、遺影写真の一般化もあって事情は変化する。
今、葬儀で遺体の納められた柩は祭壇の前面に置かれる。
かつては、といっても葬列の時代から祭壇の時代に移って以降であるが、異なる。
遺体が腐敗を開始するという事情もあったろうが、それによる腐臭を近くに感じないようにと、70年代までは遺体は祭壇の後ろに置かれることが多かった。
経緯としては、葬列が告別式に変わり、告別式の装飾壇である祭壇の上部に輿を模した宮型が置かれたので、宮型の後部に柩が置かれた。宮型は「棺前(かんまえ)」と呼ばれたこともあった。
しかし、実際には臭いからできるだけ遠ざけるという意味合いもあったのではないか。
江戸時代の図絵を見ると、寺院に運ばれた遺体(棺)は寺院の内陣には置かれず、外陣に置かれた。
だが、葬列は明らかに遺体(柩)が中心である。
遺体に対しては愛着と忌避の複雑な感情があったことがわかる。
ちなみに80年代(早いところでは70年代)以降は遺体(柩)は、祭壇の前に置かれることが多くなったが、これはドライアイスの使用が一般化したことと、自宅葬で運び出しに便利という理由だからである。
寺葬で柩が内陣に置かれなかったのは、葬列が到着するのを受けて本尊を背に引導を渡したと説明されることがある。
だが、それは理屈で、ケガレ意識から寺も逃れられなかったことを示すように思われる。
2000年以降、寺葬に積極的な僧侶は、寺の荘厳(しょうごん)を用いて祭壇の仮設なしに内陣で葬儀を執り行うケースもある。
死穢意識-民俗としての「遺体」
1)死と穢れ
日本の葬式において遺体が愛着されながらも、むしろ見た目においては忌避されることが多いように映るのは、「死は穢れである」という意識の所産であると言えよう。
死が恐怖の対象として理解されるのは日本特有のことではない。
高齢者の死が4分の3以上の時代になり、死は生の完成、終結という考え方も現れるようになった。
しかし、これは戦後の80年代以降のことである。
高度医療が進み、社会的に安定する以前は「死は生を奪うもの」という考え方が強かった。
かつては高齢化と死は今のように直結しておらず、高齢での死はむしろ珍しいもの、幸せなものと認識されていた。
高齢になったから死ぬのではなく、突然の災害、病気によって絶たれる生が多かった。
戦前は日本に限らず、死亡者数全体において高齢者の死者が占める割合は3割未満であったろうと思われる(昭和初期は80歳以上での死は全体の3~5%)。
乳幼児の死亡率が高いということがあったにしても、若くての死が珍しいことではなかったといえる。
(注1:死の高齢化 昭和初期の80歳以上の死亡者の全死亡者に対する割合は3~5%である、と記した。近年だけ見ても、これは顕著に割合が増加している。1990年:38.7%、1995年:42.0%、2000年:43.8%、2005年:48.6%、2010年:55.4%、2015年:61.3%。最新の2016年は62.4%で、男性は51.7%、女性は73.8%となっている。人口動態統計を加工。)
(注2:寿命中位数 生命表上で、出生者のうちちょうど半数が生存すると期待される年数を寿命中位数という。1955年:男性69.79年、女性74.19年、1965年:男性72.00年、女性77.04年、1975年:男性75.31年、女性80.17年、1985年:男性78.06年、女性83.38年、1995年:男性79.49年、女性85.73年、2005年:男性81.56年、女性88.34年、2015年83.76年、女性89.79年。完全生命表(5年ごと発表)による。毎年発表される簡易生命表によると2016年:男性83.98年、女性89.97年となっている。平均寿命より約3年長くなっている。
平均余命(平均寿命)の推移を見ると、1891(明治24)-1898(明治31)年:男性42.8年、女性44.3年、1947(昭和22)年:男性50.06年、女性53.96年、1955(昭和30)年:男性63.60年、女性67.75年、1975(昭和50)年:男性71.73年、女性76.89年、1995(平成7)年:男性76.38年、女性82.85年、2015年男性80.75年、女性86.99年となっており、戦前までは人生40―50年であり、高齢化とは戦後の現象であることがわかる。1955年以降に人生60―70年、1975年以降に人生70―80年、2015年以降は人生80―90年時代に突入している。)
日本においては、死の恐怖を「死霊が取り憑く」と表現した。
それゆえ死霊に取り憑かれないために浄めが考えられた。
だが、こうした強烈な表現の背景には、死そのものの恐怖と同時に死体が腐敗して変貌する恐怖もあった。
遺体に対する忌避の感情は、腐敗に根ざすところも強く影響した。
2)死は伝染する
遺体に触ると「穢れに染まって死霊が取り憑く」と理解され、また死者の出た家のかまどとは別火で食事をしたというのは、死はうつる、伝染するものと理解されたことからきている。
おそらく当時は明確には自覚されていなかっただろうが、感染症(かつて「伝染病」、古くは「疫病(えきびょう)」と言われた)に対する恐怖心があったのだろう。
感染症の蔓延を根拠として死一般が伝染するものという観念を生み出したものと思える。
死穢に染まることを今から見れば異常なほど嫌ったし、また遺体処理に携わる者(火葬従事者、墓堀、柩の担ぎ手)を差別した。
「忌中(きちゅう)」とは死後49日間と言われるが、死穢(しえ)が浄化されない間は死者の家の者は社会から隔離し、これを「忌み」といった。
3)遺体は変貌する
死そのものに対する恐怖心は、死体の腐敗による変貌の様(さま)により、より強化されたようである。
死によって体温は低下し、死斑(しはん)が出て、全身に広がり、死体は硬直していく。
腐敗が始まると異臭を放ち、肉体は解体を始めていく。
第三者にとってこうした遺体の変貌する様は忌避すべき対象となる。
と同時に家族にとってもこの変貌は精神的に辛いものであった。
それは愛する母であり、父であり、夫であり、子供であるものが、次第に生前の様子を失い、尊厳を失い、まさに死霊に取り憑かれたとしか表現のしようがないものに変わっていくのである。
こうした死体の変貌に対する恐れが、死者に対する愛着がありながらも葬式を早く、慌ただしく出すことを促した。
火葬により、白骨化した様(さま)が成仏の徴と理解されたのは、白骨化によりもはや恐怖の変貌を見なくてすむということで、浄化されたと理解されたためであろう。
4)死穢への対抗手段
死穢(しえ)に対抗するためにさまざまな手段が講じられた。
死穢に染まったと思われる者を隔離することもその1つである。
「浄め」と言われているのは、死穢からの浄化を意味していた。
①塩、水による浄め
今、会葬御礼のはがきに浄め塩が同封されることが多いが、これは70年代に葬祭業者が考案したものである。
そもそもは火葬場からの帰りに家に入る前に、家族に身体の要所に塩をふりかけてもらってから家の内に入ったものである。
古くから海水、塩、水は穢れへの対抗手段として考えられた。
死穢に染まったとされる者は海水を浴びたり、水を浴びたりした。
これは現代的に解釈するならば、洗浄し、消毒しているのであり、塩や水がこれに効果があると信じられた。
正しい知識とは言えないが、昔の人の公衆衛生意識の反映である。。
②酒食による浄め
例えば、土葬時の墓を掘る役目の人には大いに酒食を振舞ったとされる。
酒は恐怖心を薄れさせ、食事をたくさん食べることにより健康で死霊を撥ねつけると信じられたからなのだろう。
酒や食事が死穢への対抗手段として有効なものと考えられていたようである。
今日の葬儀の習俗にも死穢観念の残滓(ざんし)があり、浄めも残存している。
しかし、時代状況が変わったために、切実さは姿を消して、形式として残っているだけである。
形式として、言葉として残っているところに死穢観念の根強さを見て取ることもできるかもしれない。
現代において、習俗の模倣による継続を再検討すべきことも確かであろう。
死穢観念は、かつての若くての死、疫病等への恐怖という死に対するリアルな認識に根ざしたものであった。
それ故に、今では根拠のない死穢観念を追放することは正当であるが、死に対するリアルな認識を放棄してはならないと思う。
遺体を巡る遺族の心理
1)アンビバレントな感情
遺体に対する遺族の感情は複雑である。
死んで遺体となっても、霊魂は分離したと言われても、なお愛する肉親であるという感情から抜け出すことができない。
一方で生前とは容貌が変化した遺体があり、恐怖感もある。
こうした矛盾した2つの感情にとらわれるのが遺体である。
愛惜と恐怖のアンビバレント(両義的)な感情にとらわれるのが遺体という存在である。
第三者が遺体を見る感情と愛する者が見る感情とでは大きく異なる。
冬に掛け布団1枚だけであれば「寒くないか」と思い、ドライアイスで凍らされると「かわいそうに」と思う。
死者に向かって生前と同じように語りかける。
遺体とは愛する者にとっては完全な死者ではなく、いまだ生き続けている家族でもある。
1988年に日本に導入されたエンバーミングは、こうした遺体へのアンビバレントな感情から解放し、心ゆくまで死者と触れ合いながら時間を共有して別れる機会を提供する。
そのことによってより人間的な関係感情と共に死の事実を受け入れることがより可能となる。
もちろんこれは死生観に関する問題もある。
朽ちる遺体を見て死の事実を認識することもあるだろう。
だからどういう形で死者と別れたいか、というのはそれぞれが自由意思で選択されるべきものである。
2)火葬を巡る心理
火葬を境にして遺族の心情は大きく変化すると言われる。
火葬までが長引くことによって不安になり、また火葬がいざ行われようとすると動揺する。
火葬が終わるとこの不安と動揺が諦めを伴い鎮静化される。
拾骨(骨上げ。ちなみに火葬場で「収骨」と表記されることがほとんどだが、意味的には「拾う」のであって(骨壺に)「収める」ではない。何とかならないだろうか?役所が右倣えでやっているものを変えるのは絶望的だが)の際に近親者の緊張感が緩むことはしばしば見られる。
火葬の日取りが決まらないと遺体の変貌に対する恐怖心、不安な気持ちが強くなる。
火葬が行われようとすると、愛する家族が喪われるという恐怖感、淋しさによって支配される。
いざ火葬が終われば、恐怖心はなくなるが、もう会うことができないという諦めに心が支配される。
身体へのこだわりがなくなるので、死者への思いは精神化される。
この状態を指して「遺族の気持ちが落ち着いた」と言うことがあるが、具体的に執着する対象である遺体がなくなって、緊迫感から解放される。
そして悲しみが深く心の底に沈殿している状態に近くなるようである。
したがって悲しみがなくなるわけではない。
事実、火葬後5日くらいすると死別が傷みとなって近親者の心を襲う事例は少なくない。
3)解体と尊厳
遺族あるいは死者と身近な人にとって、その人の死を容認することは避けたいという心情がある。
もちろん近親者だからといっていつまでも拘泥(こうでい)するとは限らない。
死者との心の交流がいかほどであったかなどによってここには温度差のようなものがある。
同じ遺族であっても、一方はいつまでもその死を認めたがらず、悲しみにくれていて、他方ではあっさりとその死を認めている人もいる。
あるいは友人などが遺族以上のこだわりを見せる場合もある(悲嘆の代行)。
また、遺族の感情はそのまま表面化するわけではない。
悲嘆を押し殺して感情の安定ぶりを装うこともある。
通夜や出棺に際して、親しい弔問者に故人と対面させることがある。
「眠っているようようで、おだやかでしょう」と対面を勧めることもあるが、長期の入院などによる死後の変化により容貌が著しく変貌している場合には、遺族はこれを拒否したり、避けたがる傾向がある。
対面を拒否したり、避けるときには、遺族には故人の尊厳を守ろうとする意識が働いている。
故人の容貌の変化、悪化は、愛する者の解体であり、それは遺族および身近な人にとっては、自らの精神的危機にもなる。
遺体への執着と遺体の解体の危機は、精神的に極めて不安な状況作り出している。
以上、「遺体論」を終える。
別に論じているものがあるのだが、公表してからまた掲載したいと思う。
長い間、退屈な議論に付き合ってくれた方々に感謝する。
おそらく拙い議論ゆえであろうが、「遺体論」には近づきにくい雰囲気があるのだろう。
今まで書いたものでは格段に読まれなかったものの一つとなった。
ま、書くべきものを書く、というスタンスはこれからも同じである。