上野創『がんと向き合って』を読む
■「がんとともに生きる」
今朝(2018年2月4日)の朝日新聞朝刊を読んでいて気づいたのは「がんとともに生きる」という記事がさまざまな形で取り上げられていたことであった。
がんに罹ったことで退職を強要されることもまだまだ多い、という現実には心を痛める。
がん治療が相変わらず過酷なこと。
体力はもとより精神的にも大きな揺れをもたらすこと。
小児がんで子どもを亡くされた親たちの会で聴いた話は今でも鮮烈である。
(きょう明日掲載と聞かされていた「弔いのあり方」が掲載されていたが、これについては別に書く。)
■近親者のがんでの死亡
姉が約40年前にまず乳がん、翌年子宮がん。
2度目の時は家族全員覚悟した。
その後の抗がん剤治療のダメージが姉には過酷だったようだ。姉は一応治癒したことになり、その治療の悪夢から逃れるように10年後以降は病院の検査からも遠ざかった。
そして30年後、体調不良で病院に行き検査したらステージⅣの診断。
治療の手立てがなかったこともあり、腸閉塞の手術はしたものの無治療を選択。
告知後11か月に、骨と皮になり72歳で死んだ。
従妹はその前年、ステージⅣと診断され、入退院を繰り返し告知後13か月に62歳で死んだ。
私の見舞いは、病院に行って、ひたすら従妹の腫れた脚をさすり続けることだった。
友人が40歳を目前にまさに苛烈な闘病の結果死んだのは約30年前のこと。
高齢であったが叔父2人ががんで死亡したが、この2人は病院から見放されたものの、数年間穏やかに自宅で生活し、穏やかに死んだ。
■上野創『がんと向き合って』(朝日文庫)
身近な者ががんに罹り死亡したことを見ていたが、その実相を知った気持ちになったのは、朝日新聞の高橋美佐子記者に夫にして同じ朝日の記者上野創記者の『がんと向き合って』(朝日文庫)を贈呈され読んだことによる(きょうの朝日の記事には高橋記者も参加して書いている)。
26歳の記者上野さんは1997年11月に会社の定期健診を契機に横浜市立大学医学部付属病院で睾丸腫瘍と診断され、睾丸除去の手術。
その後に肺転移していることを告知され、「手術で取ることは不可能で、抗がん剤の治療しかない」「放っておけば半年もちません」と言われ、抗がん剤治療を受けることになる。
睾丸撤去手術の翌日、高橋美佐子記者は上野創記者に結婚を申し出る。
手術の2日後のことだった。ベッドサイドに来た彼女が満面の笑顔で「結婚しよう」と言った。
そのきっぱりとした言い方は自信に満ちていた。
驚いた。こちらは言葉が出ない。(略)
そもそも、がんを手術したばかりの僕だ。明らかに「不良物件」。格付けは一気に下がったはず。
こんな状態のオトコと結婚なんて!
12月8日抗がん剤の点滴開始。
上野記者のすごいところは告知を受けた時の自分の精神状態、家族はどう思うか、医者の態度…等を正確に、飾ることなく露わに記録していることだ。
さすが新聞記者だな、と感心する。
抗がん剤点滴の翌日の描写はこうだ。
近くのトイレに駆け込んで「おえっ」とやって、それが始まりだった。
やがて、たえず吐くのを我慢している状態になった。ひどい二日酔いがずっと続いているようなものだ。
ときどき大波のように手ごわい吐き気が襲ってくる。こぶしを握り、つばを我慢し、全身の神経を集中してやり過ごす。しかし。懸命にこらえても、結局は吐いてしまった。胃の中の物が逆流を繰り返すと、みぞおちのあたりがひきつるように痛んだ。唾液と鼻水と涙が同時に出る。
抵抗力の低下で病原菌の感染のリスクに晒される。
クリスマス前には体毛が脱落する。
1回目の抗がん剤の効果が出ない。
効きにくい10%に入っているのか、と不安に陥る。
主治医からなげられた「あきらめなければならない事態」という言葉は、僕の心のなかに居座ってどす黒い存在感を放射していた。
それは、死の予感だった。
たちの悪い細胞は、副作用ばかり引き起こす薬をせせら笑いながら、僕の全身を内側からむしばんでいく。そうして、僕の心身から徐々に温度を奪っていくのだと連想した。
こうも語る。26歳の青年が、だ。
妻は「明日は外泊だよ。うちで作戦会議しよう」と言い、「絶対、大丈夫」と笑顔を残して職場に戻った。
僕は一人になって考えた。
自分自身の死の恐怖と向き合ったが、それは意外なほど重くなかった。ある意味で、死は苦しみからの解放ですらあった。
それより、重くのしかかるのは、残していく人たちのことだった。
何度考えても、逝ってしまう人間の方が、残される人間より気楽だと感じた。(略)それとも、「自らの死の恐怖から逃げ出したくて、残される側の心理に目が向くのか。
12月29日から2回目の抗がん剤投与。
大みそかから三が日は「どん底」だった。吐き気に加え、倦怠感に襲われた。
自分の体が、自分の物でないようなだるさだった。どんより重くて、寝ていても起き上がっていても落ち着かず、身の置きどころがない。「この肉体を脱いだら楽だろう」という思いだった。
また
大みそかの夜、突然顔面と手足がしびれるようになった。
びりびりと弱い電流を流しつづけているような感じで、目の下が小刻みに震えるようになった。治療前に主治医が言った「四肢麻痺」「車いす」という言葉がよみがえった。
1月7日、主治医が「薬が効きはじめた」という朗報をもたらされる。
しかし、腫瘍は残っている。
そこで3回目の抗がん剤の投与。
通常の3倍量投与の「超大量化学療法」。
5日間かけての投与だ。
そして「予想もしなかった心の嵐」が上野記者を追い詰める。
心が落ち込み、「まったくコントロールできない」「すべてうんざりだ、ばかばかしい、やめちまおう」「圧倒的な虚無感が全身を貫いた」、この竜巻のような激情は3日間続く。
そして3倍量の抗がん剤の副作用は凄まじく、敗血症で多臓器不全の一歩手前まで。
6月11日病理検査の結果、腫瘍は認められず、同18日退院。
9月から仕事復帰。
10月、1年遅れの結婚式。
(この時の上野記者のはにかんだ笑い、高橋記者の豪快な笑い顔の写真は秀逸だ。)
だが翌年、1999年5月、再発。
左肺の腫瘍を内視鏡切除して抗がん剤を2クール。
感染症にかかったが、ようやく熱が低下。
8月14日退院。
同年10月職場復帰。
2000年4月再々発。
5月3回目の内視鏡手術と抗がん剤2クール。
退院は8月。
上野記者は3回目の入院で闘病記を書くことを決意。
2000年10月から朝日新聞神奈川版に「がんと向き合ってー一記者の体験から」を連載。
それをまとめたのが本書。
これは書評ではない。
上野記者の圧倒的な現実描写に驚き、紹介するものである。
だいたい今読むのが遅すぎる。
姉や従妹から病状については聞いたものの、ここまで詳しく聞くことはできなかった。
本書の中の一節は、退院後夫妻で沖縄に行った時の感慨である。
ふと、1千年前に人が生きていたということをリアルに感じたことがあった。(略)
1千年前にも人は喜び、悲しみ、悩み、絶望したり、はしゃいだりしながら生きたはず。そして、一人残らず死んだ。自分もさして変わらないことをしている一人だと思うと、愉快というかこっけいというか、肩の力が抜ける気がした。
本書は残念ながら絶版。
でもアマゾンで古書が買える。
重版を切に期待している。
上野記者へのインタビュー記事はこちら
http://www.mammo.tv/interview/archives/no230.html
鎌田實さんとの対談も面白い。
https://gansupport.jp/article/series/series01/series01_01/4382.html
上野記者の最も新しい記事、朝日新聞デジタルで
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20180130004936.html