遺族のケアで考えるべきこと 「死別」ということ―葬祭サービスとは何か?(3)

「葬祭サービスとは何か?」の第3回である。
第1回は、「葬祭サービスの歴史的文脈」
https://hajime-himonya.com/?p=1563

第2回は、「死者・遺体の尊厳を守る」
https://hajime-himonya.com/?p=1565

■「遺族ケア」の文脈

日本の葬儀で「遺族のケア」が課題になったのはそんなに古いことではない。
1990年代以降のことである。
特に米国から「グリーフワーク」、「グリーフケア」という言葉が紹介されてからである。
米国では、特に戦後のサナトロジー、デススタディ(死学、A・デーケンが日本に「死生学」と紹介)の研究成果がもたらしたものである。
日本では85年前後より終末期の患者のケアが注目され、WHOが全人的な患者のケアと並べて、「家族のケア」の必要性を提唱したのが1990年。
家族は患者との死別という大きな出来事を体験し、死後は「遺族」となって生きる。
医療は患者の死によって終わるが、「遺族のケア」の必要性は終わるわけではない。
終末期医療で「家族ケア」の必要性は説かれたものの、看護師の看護業務の多忙から充分なされていないのが今も実情である。
しかし、これを気にかけている看護師は少なくない。
死による退院後、これを気にかけ、病院の業務としてではなく看護師個人が休暇をとり葬儀に参列するケースも見られる。
そして各地の死別者(配偶者の死、子の死、自死による家族の死等)の会に関心を寄せ、参加する看護師は少なくない。
彼らがいなければ日本のグリーフケア活動はずっと遅れていたであろう。
■遺族ケアに着目していた人たち

ではその前にこの課題に注目はされていなかったのか、というとそうではない。
葬儀というものは2つの面をもつ。
死者と近親者を中心とした葛藤、交流という「内面的部分」と死者を送る儀礼・行事という「外面的部分」である。
葬祭業従事者の業務は、当初はあくまで「外面的部分」の支援、つまり葬具の提供や祭壇等の設営、葬儀の運営ということにあった。
しかし、遺族と接する現場の担当者レベルでは、一部で(けっして主流ではなかったが)、この「内面的部分がもたらす問題」はいやがおうにも直面せざるを得ないものとしてあった。
遺族のことを親身に考えればそうなる。
「ご遺族は身を挺しても守らなくてはいけない」と自らの仕事を深く自覚していた人を私は幾人も知っている。
葬儀に内面的部分と外面的部分があることはある意味で常識である。
しかし葬祭業者が葬儀を全面請け負うことになり、「葬儀」と言えば外面的部分だけを意味する傾向を強くするようになった。
現在の「直葬」「一日葬」「0葬」「家族葬」…の議論は、葬儀の外面部分の議論になってしまっていて、この議論の発展性のなさは、葬儀をあまりに外面的部分にのみ着目していることからきている。
■習俗としての遺族ケア
習俗ということで言うならば、四十九日が深く定着したのは何も仏教が教えたからだけではない。
死別を受容することがいかにたいへんであるか、ということへの共感が強くあったからだ。
四十九日はインド発祥であるが、49日とは言わず、20日、30日と長さはそれぞれだが、世界各地で死後の一定期間を大事にする慣習は少なくない。
四十九日、百か日、一周忌…という儀礼が重要なのではない。
近親者が死別という事実を受け容れることの困難さをそれぞれが体験しており、それが深い共感に支えられていることが重要なのだ。
もとより死別は固有であるから、人によって喪の期間は異なる。
死後7日間過ぎたから、30日、50日、3カ月、1年、2年過ぎたから「喪は終了」、とは言えない。
子を亡くした親の喪は10年経ってもあけることがないのはよくあることである。
僧侶のなかには「何もグリーフケアなどという横文字を出さなくとも、寺では長年大事にしてきた。四十九日に代表される法事もそう、盆もそう、特に最初の盆である新盆は特に重要視される。春秋の彼岸もそうである」と言う者がいる。
確かにそうだ。
しかし、僧侶がそれらを習慣行事としてではなく、個々の檀信徒に向き合って真剣に営んできたかが問われるだろう。
■「死別」の関係性
死別の悲嘆のことを英語ではグリーフという。
もとより死別の悲嘆だけがグリーフではない。
一般の悲しさよりも心を深く傷め、裂くような悲嘆がグリーフで、死別のみならず失恋、離婚、失業、離別その他大きな心の傷みで体験する。
とりわけ死別が代表的とされているのは誰でもが避け得ない出来事であるからだ。
死別の悲嘆は深く関係していた者と死によって分かたれることによって発生する。
関係の薄い者と死別しても発生しない。
また関係は深いが長寿であるとか長い闘病の結果でむしろ死が本人にも平安をもたらすだろうと納得を得られた場合には静かな死の受容がある。
日本では高齢化が著しく進み、80才以上での死亡者が死亡者全体の6割を超えた。
その結果、悲嘆が強くない葬式が増加している。
大正、昭和前期であれば、長寿は80才以上を言い、その場合には長寿を寿ぐようなお祝いとして葬式が営まれることもあった。
だが、近年の葬式は、家族の解体、親戚関係が薄くなったこともあり、高齢になればなるほど会葬者も少なく、遺体処理的な葬式が増える傾向にある、というまた別の問題を抱える。
現状は、「血縁」という理由だけで死者と心的に近い関係とは必ずしも言えない。
家族の変容・解体は進行中である。
およそ6~7割の人は「家族」に親和的、プラスイメージをもつであろうが、3~4割はそうではない。
親族がいて遺体の引き取り手がいない人は2010年のNHK無縁社会プロジェクト調査では3万1千人だった。
おそらく2018年現在はその数は6万人を超えるのではないか。
※単独世帯で看取られずに死亡し、死後数日、数週間経過して発見される「ひとり死」が増加している。東京都監察医務院等のデータから推計すると年間3万人程度と思われる。
必ずしも遺族=死別悲嘆者とはいえない。
また、同じ家族のなかでも大きな温度差がある。
■死別の悲嘆の固有性、多様性

死者と心的に深い関係性をもつ者が死別により深い悲嘆を体験するのは病気ではない。
人間として極めてあたりまえのことである。
昔の葬式で「喪主だからひとさまの前で泣いたり取り乱したりせず気丈に振る舞うように」と奨励することがあった。
だが、それは葬式を外面的な儀礼としてのみ理解して、葬式の本質が死別に伴う作業という内面的部分にあることを忘れ、また死別の悲嘆を第三者が甘く見ての誤った理解からであった。
死別の悲嘆は多様である。
近親者の死はほとんどの人が体験する。
いくつかの類型に分けることは可能だが、関係が個々である以上、死別の悲嘆も個々で異なる。
「私の父が死んだときは…」と一般化することができない。
多くの人が間違うのは、自分の体験した少数の事例をもとに他人の死別を類推してしまうことによって発生する。
配偶者の死の場合でも、その2人の歴史、家庭環境、発生状況、そもそもの関係性等によって大きく異なる。
配偶者の死ということだけで簡単に類型化できない。
基本的に人は個々によって生は異なる。
同じように死別も個々によって異なるのだ。
表象も、涙、怒り、無気力等さまざまである。
人間は他人の死に対しては存外冷淡である。
簡単に了解してしまう。
あの約2万人の犠牲者が出た3・11東日本大震災は死の過酷さを喚起させる大きな出来事であった。
だがその時でも例外ではなかった。
同じ被災地であっても凄まじい温度差があった。
同じ被災地であっても、犠牲者を抱えた人とそうでない人との間には凄まじいまでの温度差があった。
■グリーフケアの限界

近年、葬儀において葬祭従事者の役割としてグリーフケアが注目されるようになった。
葬儀の内面的部分において死別が基本にあり、個々の遺族の支援は死別の悲嘆に無理解であっては不可能である。
しかし誤解してはならないのは葬祭従事者の行えるケアはささやかなもので、せいぜい個々の死別者の自らなすグリーフワークを邪魔しないことだ、ということは理解しておくべきだろう。
最も効果があるのは家族同士、友人である。
但し、誰の支援も得られない人も増えている。
少しの気づき、配慮が葬儀支援で大きな差となることもある。
(注)
「グリーフ」については何度か書いているが、私が書いてまとまったもので、ネットで見られるものには、2003年と古いが、次のものがある。
「グリーフとは何か?」
https://hajime-himonya.com/?page_id=959

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/