エンディング産業展2018年8月22日~24日に東京ビッグサイトで行われる。
私はこうしたイベントとはほとんど無縁で、エンディング産業展の第1回のパンフレットに葬送業界の概況について書いたことがあるくらいである。
私は、八木澤壮一先生等との関係で旧葬文研(葬送文化学会)のメンバーで、現・日本葬送文化学会の名前だけ(会費を納めるだけ)の会員であるが、現会長の福田充さんから話があって、24日13時~14時半に行われるシンポジウムのコーディネータを務めることになった。
テーマは
NPO法人が切り開いた葬送の多様化とその将来
参加者は
松島如戒さん(NPO法人りすシステム、もやいの碑の創設者として知られる)
井上治代さん(認定NPOエンディングセンター理事長、桜葬を始めたことで知られる。社会学者、東洋大学元教授)
西田真知子さん(NPO葬送の自由をすすめる会副会長。自然葬として散骨を実施したことで知られる。安田会長の後、一時島田裕巳さんが会長をしたが、現在は安田会長時代のメンバー中心に戻っている)
永代供養墓は1985年に比叡山久遠墓が最初であるが、社会的に注目を浴びたのが1989年創設の新潟妙光寺の安穏廟が最初。
墓は家墓中心で承継を前提とし、承継者がいない墓は「無縁墳墓」となり存続が保証されていなかった。
そこで安穏廟は承継者を前提とせず、寺が続く限り、永代に供養すると共に、血縁に限らず友人でも(今課題となっているLGBTでも当時すでにOKだった)一緒に入れる墓、すべての人に開かれている墓を提唱した。
これを取材で知った当時ノンフィクション作家であった井上治代さんが共鳴し、紹介。
妙光寺住職(当時)小川英爾さんと一緒に1990年に第1回フェスティバル安穏を開催。
テーマは「21世紀の葬送と結縁を考える」
パネルディスカッションのメンバーは弁護士、地元大学教授のほかに今年亡くなった墓地問題の碩学である藤井正雄先生(大正大学教授=当時)、女の碑の会代表の谷嘉代子先生(関西大学教授=当時)が参加した。
ここに顔を出していたのが松島如戒さんであり、「自然葬」を提唱した安田睦彦さんであった。
谷さんの「女の碑」は、1979年、京都・常寂光寺に建てられ、市川房江さん揮毫の「女ひとり生き、ここに、平和を希う」という名言で知られる。
「志縁廟」と名づけられた。
戦時中適齢期で多くの若者が戦場で死に、生涯独身で生きた女性たちが、血縁を超えて一緒に死後埋蔵された(現在は会員を募集停止)。
松島さんは1989(1990)年に磯村英一さんを会長に「地縁血縁国籍宗教不問の会員制合葬墓」である「もやいの碑」を建立。
1993年には葬儀等生前契約受諾NPO「りすシステム」を組織し、「生前契約」を日本で初めて作った。
「葬送の自由をすすめる会」は、安田睦彦さんが1990年9月に「葬送の自由」を提唱。91年に会を発足。1991年10月に相模灘で第1回の「自然葬」を実施。
墓地以外での葬送に道を拓いた。
井上治代さんは女性問題から家墓制度に疑問を感じ、取材を続け1990年6月『現代お墓事情―ゆれる家族の中で』を発表し、墓問題を提起。同年7月「21世紀の結縁と墓を考える会」(後に「21世紀の結縁と葬送を考える会」、En21)を組織。妙光寺、りすシステム、日本初樹木葬(岩手県)に関与して、2000年エンディングセンターに発展。2005年桜葬墓地完成。
葬送に関する市民運動は1990年前後に開始され、葬送の世界を一変させた、と言っても過言ではない。
1999年には岩手県一関で日本初の樹木葬墓地が開設された。
1989年~1999年、1990年代を「お墓の革命」と私は称している。
これに関与した松島、井上、西村さんの想いを聴く、ということは今後の葬送のあり方を考える上で極めて重要であると思う。
約30年前の事情を知っている、ということで今回のコーディネータをすることになったが、私はこの問題に報道という面以上に関与してきた。
最初の「永代供養墓セミナー」を小川さん、松島さん、藤井先生、井上さん等と開催したり、「フェスティバル安穏」の企画に参与、りすシステムやエンディングセンターの初期の活動に参与、一関の樹木葬の最初の約款は私が作成した。安田さんからは原稿を求められたこともある(事情があって原稿は撤回したが)。
松島、安田、井上さんとは協働もしたし、喧嘩もした間柄である。
私としても第三者としてではなく、当事者として係わった時期であり、90年代は思い出深い時期である。
90分という限定された時間であるが、有意義な時間となるよう努めたい、と思っている。