「いのち」を考える―生死のつながりの中で

『ソナエ』に2016年末から当時の赤堀編集長との縁で連載記事をもたせていただいた。
2年のお付き合いであった。
現在発売中の同誌の記事をもって連載終了となる。

「終活」をうたう一般の人向けの発言、というのは私としては得意ではない。
実践的に行政や市民団体との関係で係わることはあったし、それは終末期の問題から死後事務まで幅広く学んできた者の責任であると思っていた。
事実、当初は終末期医療、介護、葬儀、墓、遺言や財産相続、死後事務が独立しており、相互に知識を共有することはなかった。
行政の研究会に参加しても、全体を理解している者はほとんどいなかった。

松島如戒さんがもやいの碑を立ち上げ、会員の要望からその前の葬儀等の死後事務を扱うりすシステムを立ち上げ、その後会員の要望から単身者の入院保証等の生前支援にまで関係するようになった。
業界としての事業分野は異なっても、一人の人生を考えると一連のものである。

15年以上前であるが、ある終末期医療の研究会から「葬儀の話を聞かせてほしい」と講演の要請があった。
その要請の基になったのが看護師さんたちの「死亡退院した後の遺体、ご家族の様子を知りたい」という関心であった。

看護師さんたちは患者とその家族に接し、看護業務を行っている。
死亡退院したから終わりとは割り切れない想いを抱いている看護師さんが少なくない。
中には、病院から有給休暇をとって葬儀に参列している看護師さんもいるという。

但し、私に講演依頼するのに反対した人たちがいたという。それは医師たちであった。
「尊厳ある死」を迎えさせるために熱心な医師も、関心はそこまでで、死者、遺族となった家族についてはいささかも関心を示さなかったという。
時代も変わったから、今では「遺族外来」を始めた大西秀樹医師(埼玉医大)の例も現れたから、大きく変化しているのだろう。
幸い、看護師さんたちの声が大きく、私は講演することになったし、講演後に相次いで質問にきたのは看護師さんたちであった。

ターミナルケアにおいては、WHO(世界保健機構)も、患者のケアに加えて家族のケアの大切さを唱えている。
医療機関では、そこまでの支援は現実的に困難なようだが、心を砕いている看護師たちは確実にいる。

最近では、実践的に葬送から介護に足を伸ばした吉川美津子さん、医療の現場から葬送の現場まで幅広く取材研究している小谷みどりさん、防衛問題のプロでありながら終末期医療、葬送の現場を、丁寧に取材を積み重ねている毎日の瀧野隆浩記者のような優秀な人たちが出てきている。
私は今や彼らに学ぶ立場にいる。

場違いな『ソナエ』に私が書いたものを順次紹介するが、最初は最終原稿から。

編集部にしてもそうだったろうが、私にも毎回場違い感があった。
そこで「最終原稿」は少々気負ったものになった。

 

「いのち」を考える―「迷惑をかけたくない」は不遜

 

人間は誰でも死ぬ。それは個体での話。


人類という観点でいえば新陳代謝を繰り返し、人類の未来に生命をつなげている。
そうであれば死は必然であるし、生命の継承にとって必要である。


ある仏教の宗派では、死亡すると「還本国」という。
大きな生命の源に還っていく。
けっして無になるのではない。


人間の大きな生命体は、個体である人の膨大な生死(しょうじ)の積み重ねで繋がれている。
そこで生きた人間個々が小さかろうが、中くらいであろうが、大きかろうが、それぞれが文書化されようがしまいが確かな歴史を刻んでいる。


人間の生は長くて115年、明治期までは平均寿命は40年台。
かつては乳幼児の死亡率が高かったから、この世で言葉をもつ前に喪われた生命もおびただしくあった。


近世以前、有力者、学問や芸術で何ごとかをなした者は歴史文書に刻まれたが、多くの名もなき民衆個々の生の痕跡はほとんどが埋もれたままだ。


それなりに恋があり、新しい生命の誕生を喜び、家族や仲間のつながりで充足した時間があったろう。
またきょうのパンを得るための苦労、飢饉、戦に徴兵され、子の病にとまどい、心配し、多くの生き別れがあった。
感染症は猛威をふるい、災害にも弱く、個々の生命は軽々と奪われた。
そうした悲喜の中でいのちは繋がれ、今もある。


大きな種としての生命を考えると同時に、私は固有の個の生死にこだわる。
それを「名もない」と切り捨てたら、今の私たちはない。


誰でもが死ぬ。
ならばせめていい死に方をしたい、と考えるのも当然だ。
戦後、終末期医療は格段に進歩した。
「死に方が選べる」と期待する気持ちもわかる。

だが他方で、依然として「選べない死」が跋扈し、依然多数派である事実は押さえておいたほうがいい。

突然の死は、その人の未来だけではなく、家族がその人とありたいと思った未来をも奪う。


「人生90年」時代、という超高齢社会に突入した。
最期まで元気でありたい、という願望は痛いほどわかる。
だが、それは一握りの人にしか許されない。

今まで他人の世話もしたろう。
だが、多くの人から世話されて生きてきたのも事実だ。
私個人も他人、家族に「迷惑をかけっぱなし」で今がある。

気持ちはわからないでもないが、「迷惑をかけたくない」と思うのは不遜である。


死亡する前でも多くの支えが必要だし、死亡したら、いくら計画や準備をしても、納棺も火葬も、墓への納骨あるいは散骨も自分ではできない。
人が生きるということ自体たいへんだが、死後にも膨大な事務処理が残される。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/