「暴力」とは何か?

今朝(2018831日)の朝日新聞朝刊スポーツ欄の「視点」(パワハラ疑惑 体操協会が第三者調査へ 「反暴力」揺るがすな)は、何とも言えぬ不快感を感じさせるものであった。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13658205.html?iref=pc_ss_date
そこには「暴力」についての本質的考察を欠いた、「優等生的な常識」「上からの説教」だけがあったように感じたからだ。

日本体操協会が、指導中の暴力を理由に速見佑斗コーチを無期限の登録抹消処分としたことに対し、指導を受けていた宮川紗江が処分の見直しと、同協会幹部からパワーハラスメントを受けたことを訴えている問題で、同協会はパワハラについて第三者委員会の調査に委ねることにした。新たな展開となったが、コーチの暴力の是非はパワハラとは分けて考える必要がある。

 スポーツ指導における暴力は、それを受けた側がどう感じるかにかかわらず許されない。」
という言葉から始まる。

体罰の問題性について
指導上の暴力は、された選手だけでなく、その様子を見せられる周辺の選手をも傷つける。2011年、愛知・刈谷工高野球部の2年生が自殺した経緯を調べた愛知県の第三者調査委員会は「部内で体罰を見聞きしたことなどでうつ病を発症し、自殺の一因となった」という報告書をまとめた。
と指摘する。
これは正当である。
過去のスポーツ界において「指導」と称した「体罰」が横行し、多くの生徒を傷つけたことは事実だし、スポーツ、体育の世界で、それがまだ払拭されていないし、早急に改善すべきはその通りである。


しかし、
「速見コーチが選手をたたいたり、髪を引っ張ったりする行為が繰り返しあった事実を、同協会が第三者の訴えから本人に確認し、処分をしたことは極めて正しく、反暴力の立脚点として揺るがせない。処分の重さが適切か、宮川へのパワハラがあったかどうかは別問題だ。

 幸い、宮川自身、暴力を受けたことを認め、「暴力は認められない」と考えを改めている。
 2012年に大阪・桜宮高男子バスケットボール部の主将が顧問の暴力などを理由に自殺して以降、暴力的指導の根絶に向けてスポーツ界は努力している。それを後戻りさせる論議は避けなければならない。」
とする結論には違和感がある。

問題は「体罰」だけではない。
それだけが優先されるべきではない。

 同時に、指導者の選手のえこひいき、正当性を欠く指導の強制等も同様に、あるいはもっと広く蔓延し、多くの生徒を傷つけてきた事実も早急に改善されなければならず、どちらが先に、という問題ではない。

 そういう意味で具志堅副会長(日本体操協会)が「体質改善」ということを言ったのは正当性がある。

「視点」を書いた記者への私のいらだちは、「暴力」について、「身体的暴力」に偏し、「心理的暴力」の問題性について、どこか鈍感なところが感じられるからだ。
また、暴力案件についても体操協会の調査と宮川選手の発言には差があり、第三者委員会の調査が必要なのに、体操協会の調査をそのまま受け入れていることだ。

「暴力」という言葉は、人間の長い歴史の中で語られ続けてきたが、実は未成熟な言葉で、必ずしも社会的な合意を充分に得ていない。
一般には「乱暴な力。無法な力」と辞書的には解されているが、近年はもう少し幅をもって理解されるようになっている。
例えばウイキペディアでは
暴力(ぼうりょく)とは他者の身体財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待モラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。」
と書いている。

おそらくこう規定するのがいいのだろう。
「暴力とは、他の人間あるいは集団(の一部)が、何らかの行動、言葉、態度、物理的な力を発揮する、あるいは発揮しないことによって、その人間の人権をおかす、おかそうとする、またはおかしかねない事態を招くことをいう」

言葉による虐待、差別、不当な無視・放置や偏見もそうである。もとより武力もそうである。
どれがより酷いか、より優先されるべきかは、常識的に定まる性質のものではない。

極端な事例であるが、親の殺害において、それ以前の親から子への精神的虐待への反発があるものもある。
暴力は状況によって個別に異なる。
暴力には一方的に加害者と被害者に峻別できないケースもある。

広い意味で「暴力」を言うならば、私にも社会、集団、家族に対して加害者である面があり、あるいは加害者になる可能性がある。
暴力は、誰もが無縁ではないのだ。

「視点」の記者を好意的に見るならば、宮川選手の記者会見によってパワハラ問題が大きくなり、パワハラも問題だが、コーチの体罰事案が忘れ去られるのではないか、という危機感があったのかもしれない。
しかし、この記事からは残念ながら、それはうかがえない。

記事から感じるのは、身体的暴力と心理的暴力を区分けする暴力に対する偏見である。
さらに言うならば、自らを暴力と無縁の第三者としてしまう、断罪する側に身をおく、おこがましさである。
週刊誌やテレビに見え隠れする偽善性がここにもうかがえる。

「暴力」かどうか、当事者にはよく見えない。
自分や自分の属する集団には甘くなりがちだからである。
だから「第三者委員会」のようなものが必要なのだ。

以上は、私が記事に感じた違和感を文章にしたものであり、あくまで私の感想に過ぎない。
反論を期待したい。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/