新しい仕事にとりかかる。
まずは手はじめのデッサンというところ。
これは「著作」というよりは、私にとっては「仕事」である。
デッサンしてみて少し見通しがついた。
明日から本格的に書き始めることになる。
コツコツと書こうと思う。
本屋で吉村昭の遺作『死顔』(新潮社)を買い求める。
彼の死が覚悟の死であり、それが彼にとっては「自然死」だったのであろう。読む側にも覚悟を求めている。そんな本である。
彼は自分の死が招く家族の想いが見えなかったのではない。
それは兄の死に際しての嫂などの家族への思いやりでもわかる。
若い頃に結核で死線を彷徨った体験、両親やきょうだいと死別を重ねた体験からか、死に対して潔い人であった。
剛い人であったと思う。
1点気になったのは、彼が推敲を重ねる人であっただけに、特別な想いで用いているのであろうか、「焼骨」を名詞ではなく、動詞として用いていることだ。
言うまでもなく、「焼骨」は「火葬されて焼かれた骨」という名詞として私たちは使っている。
「…前年に癌で死亡した母も、この火葬場で焼骨された」
「…死後できるだけ早く焼骨してもらい、…」
おそらく「焼いて骨にする」という意味で用いているのであろう。
無論「焼骨」自体が、墓地埋葬法に「焼骨の埋蔵」とあるだけで、広辞苑にもない言葉である。
「焼かれた骨」と解するか「焼いて骨にする」と解するか定説がないのだから、どちらでもいいか。
つまらぬことが気になった。
『死顔』は自分の死と重ねずには読めない本である。
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