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再び「千の風になって」について
先日引用したのは新井満さんの訳ですが、本に原文が載っていましたのでそれを拙い英語力と下手な表現力で問題の冒頭と最後の部分を訳してみました。
冒頭は
私の墓のところにきて、嘆き悲しむようなことはしないでください。
Do not stand at my grave and weep;
私はそこにはいませんし、私は永久の眠りにはつきません。
I am not there,I do not sleep.
そして最後の部分は
私の墓のところにきて、泣くようなことはしないでください。
Do not stand at my grave and cry;
私はそこにいませんし、私は死にませんでした。
I am not there,I did not die.
つまり千の風になって徹底して生きている、と言っているようです。
眼に見える形ではいないが、死んだのではない、と言っているようです。
人の死というのは終わりではない。死後は肉体は滅びるのだが死者のいのちは私たちのそばにいて自然の中で生きている。
そういうことを言おうとしているのだろうか。
私たちの国でも、こうした死後観が息づいていた古い時代がありました。
そして自分の死を受け入れるのに大きな働きをしていたように思います。
だが、そうは言っても、遺された者は喪失ということで深い嘆きを体験します。
この嘆きは死という事実を受け入れ、泣くということで悲しみを表出することが必要とされることも厳然たる事実です。
その人には「嘆き悲しまないで、泣かないで」というよりも、「悲しみ嘆くのは当然で、泣いていい」と言うほうがずっといいように思います。
その嘆きを通り抜けたところで、また、この詩に共感する部分もあるでしょう。
しかし、最後のI did not die. と過去形で表現されている部分に何か違和感があるが、どうでしょうか。あくまで感想にすぎませんが。
(注 weepは「声をあげずに泣く」、cryは「声に出して泣く」)
読んでよかった本2冊のご紹介
グリーフについて(だけではないが)丁寧な研究の本。著者のことを話に聞いて、本を取り寄せましたが、とてもいい本です。
戈木クレイグヒル滋子『闘いの軌跡 小児がんによる子どもの喪失と母親の成長』(川島書店)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8F%AC%8E%99%82%AA%82%F1+%91%72%8E%B8
最近の末木さんの業績は眼を見張るものがあります。これは講演録なので手軽に読めるが内容は高度かつ豊富
末木文美士『日本仏教の可能性』(春秋社)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%93%FA%96%7B%95%A7%8B%B3%82%CC%89%C2%94%5C%90%AB
1月というのは数年前に発病が明らかになった月ですが、どうもこの時期思わしくない。焦りまくっていたが、そうしていても仕方がないので、沈殿することの覚悟をようやく決めました。