盛岡へ

9-10日、岩手県の盛岡へ行ってきました。
寒いかなと思いましたが、暖かく、天気もよく。

盛岡は私の生まれた岩手県一関とは同じ県でありながら、かつては何かと対抗関係にありました。
旧藩時代、盛岡が南部藩、一関が伊達藩、という違いがあったからです。
私はバスケットボールをしていましたが、盛岡勢と当たるときには、異常なくらいのライバル意識で臨んだことを記憶しています。

盛岡は学生時代以来のことですから、記憶とは大幅に異なっていました。
城跡の石垣が名残をとどめるくらい。
何でも住宅に占めるマンションの割合が日本一だとか。
高層のマンションが建築中であったりしました。

講演とパネルディスカッションのコーディネーターをしましたが、時計と睨めっこ。時間的には無事終えることができましたが、聴いておられた方の感想はいかがだったでしょう。

9日の昼には蕎麦、夜は三陸産の魚貝と岩手牛の鉄板焼き、10日の昼は冷麺とご馳走三昧
仕事で行ったのか、食べに行ったのか、迷うくらい。
いずれもおいしく、久しぶりに堪能しました。

盛岡行きの前の晩8日は友人池上章三君の春日部の斎場での通夜へ
池上君はエンバーミングの協会であるIFSA(イフサ)の初代事務局長。
このイフサを作り、法的根拠のないところで自主基準を作り、エンバーミングの市民権を得るために協働した仲でした。
*イフサ、エンバーミングについてはhttp://www.embalming.jp/html/02.html

がんは大腸、肝臓、そして最後は肺
4月20日に数度目の入院、死亡が5月5日の午後3時

少し早く式場に着いたら、ご家族、ご親戚が柩を前に出してお別れしているところでした。
彼の遺体は8日朝、彼を知るエンバーマーの手でエンバーミングされました。
彼はがんに罹った後、すっかり痩せていましたが、元気な頃を彷彿とさせる顔になっていました。
二人のお嬢さんは終始涙顔でしたが、彼に骨格がそっくりの美しい女性になっていました。
遺体と対面しながら、思わず見比べてしまいました。

施術したエンバーマーをはじめ、エンバーマーが10名ほど通夜に出席しました。彼らは日本の風習に慣れ、違和感なく焼香していたのが印象的でした。

彼の晩年はがんだけではなく、生活面でも波乱がありましたが、家庭においては温かな関係、また一緒に仕事をした仲間には強い印象を与えたのだということを、改めて確認しました。

律儀で芯のある奴でした。
何かと相談をもちかけられ、事務所にもよく顔を出し、話が終わると、必ずと言っていいほど、飲みに出かけたものでした。
それも彼が病を得る前の話ですが。

人間の一生の評価なんてできるものではありません。
しかし、夫人と二人の娘さんと話したとき、彼は家庭にあっては全面的に肯定されていることを感じ取りました。
だから、闘病生活はきついものだったろうが、幸いだったのだと思いました。

池上章三59歳
私はいい奴と知り合えたと思います。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/