雪景色

東京でも雪です。
この間、夜にちょっと降ったかどうかわからにような「初雪」とは違って、きちんとした雪です。

今朝は雪に覆われた車に水をかけて雪を取り払い、運転してきました。
午後には止むとの天気予報を信じたせいですが、午後には雨になりました。といっても全く外に出ていないのですが。

各地の天気を見ていると、結構寒い冬のようです。北海道の旭川ではマイナス30度とか信じられない数字が出ています。

若い(といっても私にとっては40代以下はみんな「若い」のですが)葬祭に携わる人で「葬儀で感動を与える」ことを熱心に志している方が少なくないようです。
しかし、この点ちょっと不安に思っています。

50年代の後期以降、麗々しい祭壇や霊柩車を登場させた時代の人々はそうした想いだったのではないか。
いまでは勘違いだったと言えるのですが、当時は「ちゃんと弔ってあげたい」と真面目に考えたのでしょう。

葬儀で感動を演出する必要はさらさらないように思います。「泣かせる」「感情を煽る」「不必要に飾る」ことは不要なことです。

死という事実にきちんと対峙することだけが必要なことで、そこで悲嘆にある人をあるがままに支える準備こそが必要だと思うのです。
葬祭従事者も宗教者も主役ではなくあくまで支える役目です。

東京ではあまり見なくなりましたが、まだ出棺の際の遺族代表挨拶を葬祭従事者が代行して「泣かせる」話をし、式の中で司会者がナレーションをして「泣かせる」ことが横行しています。
「遺族が喜んでいる」と言うのですが、私には勘違いなように思います。

故人の略歴を紹介するのはいい。それもできたら家族が記憶を呼び起こして自分たちで作り、孫かなんかがパソコンで入力したものを配布するほうがいい。

故人の人生を下手に飾って美辞麗句で語り、感動させるのはどうにも納得がいかないのです。
親しかった人の葬儀で、聞いていて何とも言えない違和感を感じたことがあります。「この人はこんな人ではなかった」と。
人の人生は飾ることがなくとも、それだけで重いものじゃないでしょうか?

死者の尊厳とは、あった以上に飾ることではないと思うのです。
そのままで尊いのだと思うのです。

時として死者は美化されがちですが、貶す必要はありませんが、そのままでいいのだと思います。

叔父が死に、火葬場で待機している時間、家族・親族が、お人好しで失敗ばかりしていた叔父の逸話をそれぞれが競って話し、笑い転げていたことを思い出します。
皆、叔父を貶める意図はなく、そんな叔父を愛していたのです。
「叔父らしい葬式だ」と思い、一緒に笑いながら目が曇ってきたのを思い出します。

私の感覚が古くなって新しい動きに対応できていないのかもしれませんが、若い人の熱意は買いますが、勘違いしないように願うばかりです。

結婚式のノリで葬式に携わってはいけないだろうと思います。

これまでの葬式のあり方を肯定するのではありません。
変える方向が違っているように思えるのです。
失敗の経験にも学ぶ必要があるように思います。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「雪景色」への1件のフィードバック

  1. 寒いですね。久しぶりにお邪魔したらブログができてましたのでこっちにもよせてもらいました。『それぞれの立場で死に対峙する。』おっしゃるとおりだとおもいます。いろんな勘違い、思い込みがあります。でもそれも一生懸命だからこその勘違い、思い込みだろうと思います。それをただしてくれるのがこのページであったり、諸先輩だったり、宗教者だったり、遺族の想いだったり。
    決して同じじゃないんですよね。人の数だけ死があって想いがあって・・日々研鑽です。記事はHPもSOGIも楽しみにしてます。講師に来ていただきたいですね。
    体ご自愛ください。

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