葬儀と宗教

きょうの東京は晴。
だが、明日の午後から雪との予報。
今年は寒いし、雪も多い。

東京の雪と子どもの頃の東北の雪は違っている感じがする。
東北でも平野地で積雪はそれほどでもなかったが。
東京の雪はあくまで一時的なもので、東北の雪は日常であるからかもしれない。
寒さも東北のほうが厳しいが、慣れがあるのだろうか、東京の寒さのほうがこたえる。
北海道に冬に行って感じたのは、屋内の温度の高さだ。外と内ではえらい違いだ。
東北はそれほど備えていないので、内でも寒い。

先週の土曜日に市民向け講座で「葬儀と宗教」と題して話をした。
資料は前に別の講演で用いたものを流用。
日本における大きな教団の解説と、それぞれの宗派の葬儀への考え方を簡略に解説する。
90分だから話せる内容には制限がある。

仏教用語の言葉の難しさを指摘する聴衆がいたが、もっともなことで、私もやっとこさ覚えた。
同じ内容を宗派でそれぞれ別な表現をするのも局外者にとっては厄介なことだ。
その宗派では自明なものでも局外者にとっては、そんなこともあって難しい。

「礼拝」という言葉がある。仏教では「らいはい」であるが、キリスト教では「れいはい」である。
広辞苑によれば「らいはい」は「神仏の前に低頭・合掌して恭敬の意を表すこと」で、「れいはい」は「神仏などを拝むこと。現代では主としてキリスト教でいう」とある。

でもキリスト教で言う「れいはい」はこの記述では不充分である。「人々が教会に招かれ、神の前で懺悔し、御業に感謝し、神を讃え、心を開いて神の言葉に耳を傾ける」とでもいうべきもので、仏教で言うならば「法会」「法要」という言葉に近い。
キリスト教が後から入ってきたのだから、もう少し別な言葉を用いればよかっただろう。広辞苑の解説者はおそらくキリスト教徒ではなく、在来語である「礼拝(らいはい)」をキリスト教で何故違った意味で用いたのかわからず、共通要素を求めて解説し、後は「主としてキリスト教で用いる」と逃げたのであろう。

日常語と仏教で用いる語が違った意味をもつことがある。
「荘厳」はその一つである。
日常語は「荘厳な雰囲気」とか使われ、「たっとくおごそかこと、重々しく立派なこと」を意味する。
しかし仏教で「荘厳(しょうごん)」と言うと「仏像・仏堂を法具、仏具等で飾ること、または飾り」を意味する。

それはさておき、今回、かいつまんで話した(ま、関心のない人には退屈だったろうが)のだが、話しながら奥底にある構造に似たものがあるという感じがした。それは一つに集約されるのではないが。

今回は紹介だけに終わったが、なぜ葬儀に宗教が介在したのか、その歴史についても述べたかったのだが、時間が不足した。
宗教者(神職、僧侶、牧師、神父等)にしても、自分の属する教団の考え方はある程度はわかるが、他の教団についてはわかっていないのが普通である。
例えば真宗の僧侶が「仏教と葬儀」について語れば、それは真宗の考え方で仏教一般ではない。

無論、私が話したのは「信仰」をさておき「知識」としてである。
当の信者にとってはへ~という話である。あるいは「間違っている」と言われかねない大雑把な内容である。

それぞれの宗派の儀礼には意味があり、その宗派を理解しなければわからないものも少なくない。葬儀について見ると、死生観や習俗等とのせめぎあいも見て取れる。

しかし、各宗派の理解を見ていると、現代にあって考え直すべきところもあるように思える。

葬儀というのが近親者にもつ意味をよく考える必要がある。

よく熱心な宗教者から出る「葬儀は布教(宣教)の場」という言葉は私は違うと思う。それはふだんの布教(宣教)活動でやればいいことで、死を前にした人々に対しては戯言のように思える。
説教(法話)が不要であると言うのではない。それはもっと死者に近親者の想いに副うものでなければならないだろう。

葬儀においては日本だけではなく米国においても宗教の形骸化が進んでいる。これからもっと進むであろう。日本で、今は98%の葬儀で宗教儀礼が営まれているが、内容の薄さはどんどん進行しており、戦後生まれが高齢者の過半を迎える15年後には形としても選択されることは少なくなるだろう。
私は数字の根拠なく「15年後には無宗教葬が15%になる」と語呂合わせみたいなことを言っている。

だが、それでいいのだろうか?

人の死というのはその人の生を凝縮した面があるように思う。きれいごとだけではない。
人の生はおぞましいものであることも少なくない。葬儀はそれをきれいごととして処理するのではなく、もっと死者に即し、そうしたおぞましさ、汚れ、弱さ、孤独、等も引き受けるものであるだろう。

葬式をしない「直葬(ちょくそう)」には、個々を見ればさまざまな背景がある。だからまとめて切り捨てることは避けるべきだろう。
その中で確実に進行している一つが「死体処理」的感覚である。「家族葬」と言われるものにもある。
それは死者と遺される者との間の心的関係の遮断である。

「人間の尊厳」「死者の尊厳」というのはきれいごとばかりの世界でのことではない。破れた、自尊心を失った、傍から見ればどうしようもない人間に対しても言われるべき言葉である。
宗教者が「死に係る」ということは、そうした人間の赤裸々な現実の生死に係るということである。

単なる「儀礼」として第三者的に時間を過ごすのではなく、その生死の現場に係るのだということを自覚する必要があるように思える。

話はがらりと変わる。
藤沢周平のエッセイを読んでいたら、周平の故郷、山形県の荘内の桃の節句で獅子が各家を回るが、その「お獅子さま」に人々は「ご苦労さまです」と口々に言った、とある。

よくビジネスマナーの解説で「目上の人にはご苦労さまです」と言わず、「お疲れさまです」と言う、と書かれているが、私はこれを不思議に思っていた。
「ご苦労さま」と「お疲れさま」の間にはそんなに境界というものはなかったのではないだろうか、と思っていたからである。

「ご苦労さま」には「他人の骨折りをねぎらう」意味で、ある意味で感謝の表現である。
「お疲れさま」には「他人の労苦に対する配慮」の意味があるように思う。「大変でしたね」とか、あるいはその人の仕事への尊敬があるように思える。
目上に言うか、目下に言うか元々は関係なかったのではないか。
それが階層社会であえて使い分けられたのではないか。
そもそも目上、目下というのは階層を前提としたものである。
私の育った時代が戦後民主主義の時代で、「平等」を煩く言われた時代であったというのも関係しているかもしれない。
何かこの使い分けは納得できないでいる。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「葬儀と宗教」への1件のフィードバック

  1. お久しぶりです。以前投稿したのが2月初めでしたから・・・もう私が住んでいるトコでは春が始まっています。あさ出勤前に戸口をでると『ホーォ・・ホケキョォ・・ケキョケョォ』って。癒されますよ・・・。
    話はかわって・・【それぞれの宗派の儀礼には意味があり、その宗派を理解しなければわからないものも少なくない。葬儀について見ると、死生観や習俗等とのせめぎあいも見て取れる。】・・・ですが~♪(*^_^*)
    いま 面白い(・・失礼)お寺さんがいらっしゃって・・。通夜でこうおっしゃるんです。
    「もともと通夜に読むお経なんてのは無いんです。身近な人が亡くなって、皆が故人と向き合って葬儀までの、残された刻をすごす・・それが日中では足らないから夜を通して過ごす。それが通夜なんだから。『通夜式』なんかありません!・・でも私は通夜にまいります。通夜にお参りして私の私なりの故人の送り方を説明します。そういう時代になったかもしれんから・・」と   ステキな出会いでした。

コメントは受け付けていません。