どもり

私はときどきどもる。
いつからか不明だがずいぶん前からである。
吃音者はある説では日本に100万人いると推定されているようだ。

緊張した状態でだけ発生するわけではない。
家庭で寛いでいる時にも発生する。

私自身のことで言えば、どもる時は次のような過程で発生する。
何かを見たり、聞いたり、出遭った時、それに脳は反射して何かを思う。
これはイメージだけではなく、何かをであるが。
これを言語化しようとする時、うまく言葉が見つからず、焦ってどもるような気がする。

何かを思った時と言語化する時が一致しない、そこに摩擦があるのだ。

講演の途中でもときどきだがどもる。
考えながら話をしているのだが、次に続く適当な表現が出てこない。頭は先のことを考えようとしているのだが、発話が中断し、混乱した時に発生するようである。

もとより以上は、極めて私的な感想なのだが。
医療関係者等には何か適切な説明があるかもしれない。

先日行った仏教者の前での講演の途中でもどもったし、昨夜家庭でもどもった。
でも、あまり心配していないというか、何かを思い、イメージすることと言語化の間には距離があることを感じて、納得している。
おそらく言語化ということには本質的にこういう問題があるのだろう。

こういうことを考えると、好悪の感情というのは、何かを見たり、聞いたり、出遭った時、それに脳は反射した段階で発生しているように思う。
言葉を書くときには、そもそもどう思うかという段階で停まり、それをどう表現しようか、ということでまた逡巡する。
そもそも何かを思うという気持ちができないことがある。
論理ということは好き嫌いと関係ないように見えて、案外本質的であるようなところがある。
小林秀雄没後25年というが、この人の研ぎ澄まされた文の中に、その対象が好きか嫌いかというのがまずあったように思える。
私の小林秀雄への対し方というのは、ある時は刺激的で、ある時は退屈であった。

少しずつ春が近づいているような気がする。
寒さの触感が違うのだ。

きょうはこれから名古屋に行き、90分の話をして帰ってくる。
新幹線の中というのは、私にとっては、まとまったことを考えるには適した空間である。
何時には着くというのがあるから、それまでに考えをまとめようとするのだ。この時間がうまく使えた時、ちょっとした充実感がある。
でも、いつもその時間が使えるわけではなく、漫然と過ごすこともある。こうした時は何か損をしたような気がする。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「どもり」への1件のフィードバック

  1. 初コメントさせていただきます。
    以前からブログは読ませていただいていました。
    体調はいかがですか?あまり芳しくないお話を伺うと心配になります。
    先日は主人がお世話になりました。
    機会がございましたら、またぜひお越しください。

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