今朝の道路はいつもに比べて少し空いていました。
ゴールデンウイークに突入された方がすでにおいでのようで。
少し雨が、東京はきょう曇雨との天気予報。
「連休はどうされますか?」
がこの時期の合言葉のようになっていますが、私は変化しません。連日、事務所に出勤しております。
葬祭業界に働く人にも連休はありません。
さて「死生学」という言葉が大流行の感がします。
アルフォンス・デーケン先生(上智大学名誉教授)がサナトロジー(タナトロギー)を日本語訳に「死生学」と名づけたのが最初。
デーケン先生には先生なりの主張があってつけたものですが、一般用語としてはどうでしょうか?
デス・スタディとも言われるこの言葉、一般語としては「死学」がいいように思います。
人の死(最近はペット・ロスも含まれるようになりましたが)にまつわるさまざまな問題をさまざまな角度で取り扱うのですから、一定の価値観に支えられた名にすべきではないように思います。
仏教でも「生死一如」とか言われますが、これは生死をどう考えるかという思想です。誰もが死をそのように考えなければいけないのではありません。
死生学という言葉に「生」という言葉が入っているので、どこかで安心、あるいは言い訳できる、と考えるのはちょっとうがちすぎでしょうか?
「死生学」は広辞苑にも既に認知されており、
「人間の死や生殖、死と生の関連で特徴を明らかにしようとする学問」とされています。
でも、これはちょっとおかしい。
サナトロジーには本来は生殖の問題は枠外で「死生学」としたものだから強引に含ませたもののように思うのです。
生殖は科学では「生命科学」あるいは倫理では「生命倫理」(これの大きな課題は生殖の問題と同時にターミナルの問題が含められます)で扱うのではないでしょうか?
もちろんサナトロジー自体が学際的分野ですからどれを関連づけるのは自由ですが。
要は学問分野では、あまり思想が反映されないほうがいいように思えるのです。そこでどんな思想が語られてもいいですが。
例えは悪いですが「葬祭」を常に「冠婚葬祭」と言っているような落ち着かなさを感じるのです。
権威ある東大でも「死生学」という講座はあり、島薗教授は、
「アジア,とりわけ東アジアの伝統では,死と生は表裏一体の関係にあるととらえられてきた.死だけを切り離して考察するのではなく,生殖や誕生,病や老いといった人生の危機にどう向き合うか.これらも死生学の課題である.」と言っていますが。
死を扱うということは「死だけを切り離して考察すること」に即つながらないことはサナトロジーの研究においても明らかです。あえて「死生学」と言わなくともよい。
つまらないこだわりと思われるかもしれないが、私はなんかしっくりこないのです。