ドトールが好き

この季節、例年のことだが慌しい。
あちこちに出かけ、まとまった仕事もある。
自分一人のことであればいいのだが、私の仕事の進み具合で関係者の方に集まっていただき、次のステップに進む、というものだから、「できなかった」とは言えないので、踏ん張って仕事をする。
仕事ができているということは、少し改善しているのだろう。

2日前だったろうか、遅くまで仕事していたら、頭が冴えてしまって、覚醒し、通常の導眠剤2個では眠れず、起き出して1個追加、眠気が来るまで酒を飲んだが、どうもそのまま椅子で寝てしまったようで、朝には家人から何十回目かの注意を受ける。

昨日、一段落したが、きょうから押せ押せで遅くなった原稿にやっと手をつけることになる。

昨日もそうだが、大気が不安定で、晴れていたかと思うと局所的な雨、という夏らしい天気。
考えてみればもう7月も半ば。

コーヒーで薀蓄を語る人が多いが、以前は自分でブレンドしたこともあったが、最近はドトールで豆を買い、コーヒーメーカー用に挽いてもらってきて飲む。
きのうは2種類買った。
自分でブレンドするよりずっとおいしい。
スターバックス派もいるだろうが、私は断然ドトール派である。
何も店が煙草を吸えるようになっているからではなく、味が私の好みである。

昨日、外を歩いていたら宮型霊柩車に出遭った。
かつては宮型霊柩車を見たら親指を隠すと言われた。
この都市伝説もここに書いた。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/manabi/ceremony/index.html
この日経BP社の「セカンドステージ」
この霊柩車の記事はやっとランクインしたが、その前に書いた「葬祭ディレクター」の話はランクインできなかった。おそらく初めてのことである。
読者は正直で、自分の関心あるものは読むがそうでないものは読まない。業界内では大きな問題でも関心が低い。
13年間、これに最初の立ち上がりから係わり続けた者としては、少し淋しい気がする。

また、慌しく、尻に火がついた状態が続くので、次の更新は今月末になるのではないか、と憂うのだが、考えてみたら、いままでもしょっちゅう更新しているわけではない。
でも書かなくても、アクセス数はチェック、だいたいはお馴染みさんが多いようだが、テーマによって急に上がることもある。
グーグルの検索は結構細かいから、そのせいでこちらのブログにアクセスされる方がいるようだ。

歳をとる、ということの一つは「疲れやすい」ということだ。昔のように2晩徹夜はおろか、1晩すら一切できなくなった。
少し前までは会合で呑んだ後、もう1軒、ということがあったが、もう10時過ぎ、と時計で確認すると、次に行くのが面倒になる。
また、馴染みの店が次々と閉店したせいもある。

私は「アエラ」の愛読者で、後ろにある高村薫さんの「平成雑記帳」はお気に入りである。
この高村さんの社会や人を視る目は確かである。

7月14日号で「自殺」について取り上げている。
警察庁が6月20日に自殺者統計を更新、平成10年から19年まで自殺者3万人超で10年連続だったと報じられたことからである。
ちなみに警察庁のデータは
http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm
高村さんは自殺された遺族の喪失感の複雑さに言及している。
途中経過を除いて(乱暴すぎるが)最後の締めは「自殺がそういう漠とした拒絶の行為であるなら、社会がまず見いだすべきは、この漠とした拒絶を言い当てる言葉である。言葉さえあれば、死の誘惑はしばし後退する」である。
自死については最近「自殺予防」ということで厚労省を中心に盛んに取り上げられているが、私には違和感がつきまとう。

高村さんの分析は優れている(途中を是非お読みいただきたい)。しかし「この漠とした拒絶を言い当てる言葉」はあるのだろうか。何か高村さんは書かないといけないから書いたという感じがする。むしろないということを言外に籠めたように読める。
そもそも自殺者は死にたくて死んでいるのであろうか。
かつては自殺に生を対立項としてとらえた論考が多くてうんざりさせられたものだ。高村さんが書いているように
「しかし、生きてさえおればいいことがあるというのが必ずしも真ではないことぐらい、現代人なら誰でも知っている」
のだ。

厚労省の「平成19年人口動態月報年計(概数)の概況」が最も最新であるが、このところ死因の順位はあまり変わらない。
①悪性新生物
②心疾患
③脳血管疾患
④肺炎
⑤不慮の事故
⑥自殺
⑦老衰
である。男女差があり、男性の7位は「慢性閉塞性肺疾患」で老衰は10位と下がる。女子は5位が老衰で、6位が不慮の事故、7位が「腎不全」で、「自殺」は8位である。

人口動態統計では平成19年の自殺者合計は30,777人で、男性が21,977人、女性が8,800人となっているので、「男性の自殺」が目につく。欝患者は女性の方が男性よりもはるかに多いのに、である。

「自殺」をあまり大げさにとらえる必要はないように思う。
この「自殺」という言葉がよくない。これでは「犯罪者」ではないか。
「自死」でいいではないか。

極めて限定された私個人の体験では「自死への傾斜」というのは選択的行為ではない。
自死を「追い込まれた死」とする理解が拡がっているが、それに近い感覚である。息をするのも辛いのだ。
私のは医師に言って新しい薬をもらって、その傾斜感が少し遠のいた状態であるが。
私としては他の死因同様に病気、疾患のように思える。
死生観なんてここには入り込む余地はないのだ。
視野狭窄に陥るのだ。

何回「生きる意味」を聞かされても、「いのちの大切さ」を説かれようと、そういう世界とは無縁の極北に自死はある。
また、自死遺族が大変な苦悩、自責、悲嘆を体験するのが自死である。

これはおよそ自分の体験を基にした感覚に過ぎない。
だが好きな高村さんの書くのを(これは非常に優れたものだが)読んで、私個人の感覚には大きなズレを感じたので書いてみた。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「ドトールが好き」への1件のフィードバック

  1. ネット検索で死生観のすばらしい文献紹介にめぐりあい、思わずブログにコメントしてしまいました。
    昨年脳出血で一度死んだ54歳の男です。
    精神も肉体もヨタヨタです。
    「死生観」が変わったかと聞かれると「劇的体験」はすぐに風化してしまうので、今や「死生観」を考えるのすらおっくうな老人ができあがっただけという情けない状態かもしれません。
    HPをいくつかやってます。
    そのなかで死生観に関係がありそうなのを選んでみました。よろしければパラパラと見てみてください。

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