昼間の眠気

このところ昼間に眠気が襲い、我慢できなくて寝てしまうことが度々。
どうも加齢による体力低下のようだ。

ブログを休んでいる間に2つの試験。
試験は合格すればいいものではないようだ。
前回落ちた人が、まったく見違えるほどに変わって(いいほうに)、再び会うと、不合格にすることがその人にとっていいこともあるのだ、と気づかされる。

所詮は「試験」というのは人生におけるプロセスの一つ、終点では無論ない。
がんばる人のエネルギーは眩しい。接することによって力を分けてもらえたら、とも思うが、むしろ次代に託したいという気持ちが強い。

つい1年前までは(正確ではないが)、昼間眠く感じることはほとんどなかった。つまりは歳を取ったということだ。

11日はお寺で話をする。
質疑応答で、はっとした。
葬儀というのは生き死にの話だから、これに係るというのは、自分なりの根拠をもたねばならないのに、ついジャーナリスティックに情報を提供しようとしている自分がいる、ということだ。
真宗の僧侶の方々であったが、教えられたと思った。

予定としてはその後、ご一緒に呑んで、交わるときをもつはずであったが、13日のリハーサルが入ったため、残念ながら終了後に渋谷に車を飛ばした。
首都高速が幸いにも渋滞が少なく、予定時刻の10分前に到着。

この日帰宅して久しぶりに空腹感。
講演に向けて出発前に電話での打ち合わせが長引き、パンを買って車に乗り込み、運転しながら食べ、お寺ではお菓子もいただいたが、話す前には口に入れたくないので、そのままであったからだ。

12日は朝7時には家を出て、終日試験で詰めた。
何かをするわけではなく、私が忙しいということは問題があるということなのだが。でも緊張感が続く。終わって事務所に戻り、少々仕事。

13日は朝6時45分までに局入りということで、5時に起きて6時に家を出る。朝早いので道路は空いていて、少し早く着いたので代々木公園で車を止め、一服。
その後、局に入り、まず化粧し、リハーサルをして、さらに打ち合わせ、時間が過ぎるのは早く、9時からの生放送の時間が感覚としてはすぐ来た。

放送時間は30分(正確には予告があるので29分間)であるが、民放のようにコマーシャルタイムがあるわけではない。予定した構成どおりに進行しないといけない。
担当者は何回台本を書き換えたのだろう。その責任の半分近くは私の意見のせいであったろうから、迷惑をかけた。

本番では台本よりも私が少し多めに話したので、時間が押して、最後まで迷惑をかけた。
録画の番組であると、担当者はこれから放映まで編集という作業を控えているので、緊張が残っているが、生放送であると、いいも悪いも終わったという感覚があり、私が多少台本をはみ出しても大目に見てもらえた。
番組はNHKテレビ毎週土曜の9時~9時半放映の「家計診断 悠々ワイド」でテーマは「お墓」。
http://www.nhk.or.jp/kakei/

極めて実用的な内容であるが、細かな配慮が必要な部分が多い。
この細かさが民放とNHKの違いかもしれない。

前に民放に出たとき、担当者と細かな打ち合わせをしたのに、本番では司会者が違う方向に話をもっていったものだから、担当者の準備がほとんど無意味になったこともあった。
そこで「どっちみち」という気持ちもあって、打ち合わせなしで臨んだこともあったが、いい意味でも悪い意味でもNHKにはこうしたラフさはない。

ほんとうは出演予定は私ではなく、尊敬するIさんだった。私はピンチヒッターで、その分気楽ではあった。

前日夜に福岡の姉に出演することを話しておいたので、母も観てくれたらしい。認知症だが、息子の顔はまだ覚えていてくれたようだ。
「歳をとったね」と話していたとは姉の報告。
その姉も改めて、私の髪が薄くなってきたと感じたようだ。

きょうも問い合わせがあったが、何かとせわしく、私自身が講演するとか、主宰するとかではなく、出なくても済みそうだという会合は申し訳ないがパスさせていただいている。
だからあちこちに不義理をしている。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「昼間の眠気」への2件のフィードバック

  1. ずいぶんご無沙汰してました。ちらりちらりとは拝見しているのですが、なかなか想いがまとまらなくて・・・。SOGIのほうで、『私は「1日葬儀」を、たとえ遺族が希望しても、葬儀社が推奨すべきとは思いません。葬儀というのはプロセスであるという理解を妨げ、遺族のグリーフワークの妨げとなるからです。だからといって「通夜式」という、通夜の社会儀礼化も容認できません。』・・という記事を読ませていただいて・・。そうですよね。ずっとおっしゃってきてましたもんね。グリーフワーク・葬儀をする意味・ 別れること、送ること・そこないないということ・・がんばれ!葬儀に携わる人たち。もう少し消費者(遺族側?葬儀を出す側の人たち)が賢くなってくれたらもっともっといい葬儀ができるかも・・・。ながく読み辛い文になってしまいました。すみません。
    ずいぶんお疲れのようですが大丈夫でしょうか?蒸し暑いだるい日が続きます。ご自愛くださいませ。  かしこ

  2. umezo様
    コメントいただきありがとうございます。
    時代の風潮をどう考えるか、の問題です。
    事柄にはいろいろな面があります。一刀両断できないのは承知していますが、警鐘もせず黙っていられない、お節介者です。また、それが私の役割の一つかな、と考えています。

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