今朝は雨、それほど強くはない。
帽子をかぶれば傘は不要なのだが、傘を片手に出かける。
時間は5時半
いつもは同じ目的の人にたくさん出会うが、雨とあって人が少ない。
いつもは公園で6時15分くらいからストレッチ、みんなの体操、ラジオ体操1、2と6時40分までやって家に帰るのだが、きょうは公園での体操は休みにつき家に戻ってからテレビ体操をする。
雨の中、まだ暗い時間だった。よく見えないが雰囲気を感じてもらえれば。
最近の散歩コースの写真いくつか。朝焼けの太陽が眩しかった。
毎朝5時半に起床、5時40分には歩き出す。
公園まで約10分、川に沿って歩き、途中でUターンして公園まで戻ると6時15分前後、そして皆の体操に加わり、6時40分に体操を終了し、家に戻るのが7時前、コーヒーをセットしてシャワーを浴び、新聞を目で追い、テレビのニュースに時折目を遣り、朝食。
8時前後に家を出るのが日常である。
前にもウオーキングのことは書いたが、ずーっと続いていたわけではない。昨年には入院とかもあり、いつの間にか中断状態が続いた。
今回はこのところしばらく継続しているので、堂々と公開。
朝の散歩再開の動機はケチなもの。
体重を5キロ落とすのに半年ほどかけたのが(入院し点滴だけの生活も貢献して)、一挙に元の体重に戻ってしまったため。
体重は落とすのは難しいが、戻るのは簡単(^_^;)
散歩は痩せる目的より、朝の気分がいい。
深呼吸し、ゆっくりはき出すとリフレッシュする感じ。
「おくりびと」について先回書いたが、本木さんが腐乱遺体を処置した後、食事ができない。すぐ吐き出してしまうという描写がある。
後からは納棺をした後でも食事ができる、という主人公の進歩、成長を描いているのだろう。
これは青木さんと離れたオリジナルだ。
青木さんは無数の蛆を描くが、死体の汚辱ではなく、掃除している間に蛆もいのちだと見て、その蛆が輝いて見える様を書いている。
腐乱した遺体に接して反吐を吐く、というのはありそうな設定であるが、私はどうかな、と思った。
この映画では「食べる」ことが「生」を象徴し、それで死の意識化を図ろうとする試みをしている。
何となくわかりやすい感じがするのだが、これは死体に日常的に接する納棺師という専門職を設定したからではないか。
「生きるために食べる」ことで、食し得ない死者を描こうという試みは葬儀の民俗の中に溢れている。
青木さんも書いているが、かつては地域の人が遺体を湯灌して座棺に納めたが、その役にあたる人には酒と食事がふんだんに振る舞われ、顔を赤くした湯灌役は酔っ払って湯灌をした。
また死の穢れに対抗するように死者に接した人には酒食が振る舞われたという。
関東では酒食を振る舞う席を「清め(浄め)」と言う。
死のリアルな怖さに対抗しようとしたのであろう。
私は「清め」というのは「死、死体は不浄なものという観念を前提とするものだから、その言葉を使うのはおかしい」と発言し続けている。
家族の死に際して、多くの人は食欲不振に陥る。それは穢れからではなく、悲嘆(グリーフ)がもたらす。それは自然なことである。
ちょっと的を外れた感があるが、食べること=生きること、という設定は、生きている以上は人は食す、というあたりまえのことであって、それが死を意識させることになるのか。
映画の中で山崎努がフグの白子をおいしそうにむしゃぶるシーンは印象的だが、それと死、死者を描くというのは別のことのように思うのだ。
死というのは圧倒的事実である。だが、残念なことに第三者はそれを見ても同情以上の感慨をもつことはまれである。死者の周辺にいる者にとっては死のもつ意味は決定的に異なる。
私は「体験しない死」というのはリアルなものではない、と常々言うが、死一般をいくら論じても、それがリアルな死からは遠くにあるのだと思う必要があるだろう。
いろいろ言ったが、「おくりびと」は秀逸なできの映画である。
葬儀に携わる人たちにはとても共感を呼ぶものになっているようだ。
『おくりびと』
□作品オフィシャルサイト 「おくりびと」□監督 滝田洋二郎 □脚本 小山薫堂 □キャスト 本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子、杉本哲太、吉行和子、笹野高史、峰岸徹、山田辰夫
■鑑賞日 9月14日(日)■劇場 チネチッタ■cyazの満足度 ★★★★☆(5★満点、☆は0.5)<感想> 普段、遺体を棺に納める“納棺師”という言葉すら、耳にすることは少ない。 この映画は東京で楽団解散をきっかけにチェロ奏者の夢をあきらめ、故郷の山形に帰って来た小林大悟(本木雅弘)がある求人広告を見つけ、何が因果か再就職…
朝焼けのころは起きていないので、真似をして夕焼けを撮りました(*^_^*)