何気なく立ち寄って求めた本

日一日と秋は深まっています。
このところ怒ったり、宥めたり、苦吟したり、と落ち着かない日々を送っている感じです。

自分が「書く」立場にいて倫理としているのは、他人を不当に貶めてはならない、ということです。
そこで自分の眼をあっちに置いたり、こっちに置いたり、俯瞰したり、接近したり、裏に回ったりするのです。
それだけで疲労して書く出口見いだせないことも少なくありません。

具体的なことは省きます。
「紙は凶器にもなる」ということをいまさらながら体験させられました。
悪意から出発したものは、いくらそうでないと思っても悪意の補完でしかなく、人を充分に傷つけるものである、ということです。
書き手の自由はありますが、書くことが暴力にもなるということを自覚しなければならない、といまさながら思うのです。

さて、私は濫読者です。
私の部屋が乱雑になったので、読み終えた本を売り払おうと思っています。いままで2度売り払ったので今度で3回目、ネットで予約をしました。
本屋を覗き、おもしろそうだなと思うと手が出て、数ページ読んで自分の感覚に合うな、と感じたらレジ行きになります。
そうした本でも戻って読んでみると「失敗した」と買ったことを後悔することが実に多いのです。

そんな私が本屋で手にし、ぶるぶると震え、一気に読み上げたのは今月11月発売の新刊
立花れん『小鳥か私』(ポプラ社)、440ページを超える大作。
心が震える…というのはこういうことでしょう。

ネットで「立花れん」を探しても、この本とストリッパーである別人しか情報がありません。

もしかしたら、私は新しい作家の誕生にめぐり合ったのではないか、という予感。

私も若い時、密かに小説の世界に憧れていました。詩も書き、表現を追い求めたものです。いまや面影すらありませんが。
こんなことを白状するのもこそばゆいことですが。
いまでも隠れて、ほんの小品とも言えないものを書きますが、それは隠れてするから楽しいのであって、作品としては駄作です。
でも表現の世界というのはどんなものであっても嘘を書けません。事実かどうかではないのです。自分の想いを裏切れないのです。

さて文章としては下手な
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/manabi/ceremony/index.html

葬儀の挨拶、またトップ。
人に読んでいただくことは単純に嬉しいことです。
私は「大切なことはマナーなどではない」
と主張しているのですが、皆さんはこういうことに関心があるのだな、とランクを見て教えられます。
今回新しくアップしたのは「死後の処置―『おくりびと』の世界」
いかにも映画のヒットに便乗したようなテーマです(>o<")

年末にかけて慌しい日々が続くことが予想されます。
そんなとき、結婚式の写真をはがきにして送っていただくと、ホッとします。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

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