このところ精神的かつ体力的余裕がなかったのでブログを放置してしまいました。
きょうは90分の2コマ、本来話すべく事前に用意した資料にはほとんど触れず。最近は若い人への老人のお節介話になっています。
若い人の豊かな感性に期待しつつも、何事にも歴史があるのだということ、人と接するというのは相手の情況にもよるので、全てに通用する正しいということはなく、それを感じとる感性が大切なこと、等
そして、このところあちこちで言っている
「葬儀で感動を与える」
などということは考えるな、それは傲慢で、余計なことだ。具体的な死者に遺族が対峙する、その機会をそっとサポートすることが大切だ…という話を途中休憩入れて3時間しゃべったものですから、最後は燃料切れでした。
他方ではメールで喧嘩などということを、年甲斐もなく相変わらずやっています。
いい気になって書くボンクラジャーナリストが、無自覚に「言葉の暴力」を振りまき、粋がっているのは本当に腹立たしいものです。
このところ自分のことをいやおうなく考えさせられています。
そして無力感に陥っています。
こういうときには酒場に、というのが、ちょっと前までの自分でしたが、その気力、体力がいまはありませぬ。
いろいろこの間あったのですが、それは省略…
一応、更新、ということで。
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更新ブログありがとうございます。
メールで喧嘩。熱い血がながれていることで安心です。^^
言うことは言う!姿勢を見習わなければ。と感じました。
やりたいことがいっぱい、気づけばもうこんな時間(3am)。碑文谷さんのブログで情熱を頂いたのでも少しがんばる!
シュン君、このブログを書く前に偶然あなたのページを覗き、画像なんて取り入れているんだ、と感心。今回の中外日報に手元供養が紹介され、お父様の話がかなり大きく取り扱われています。
「感動する葬儀」というキャッチフレーズが大嫌い
ブログ「碑文谷創のはざまの日々」を読んでいて、私が常々感じているのと同じことが書かれていたので、すかさずブックマーク。
一応更新(碑文谷創のはざまの日々)
「葬儀で感動を…
サイトみてくださりありがとうございます。
6年たった今でも試行錯誤&迷走中のホームページで、ある意味、日替わりとなっています。(^^;
中外日報、見ました。手浄土宗でも調査対象になってるようですね。元供養は宗教ではないですが、“生きる”を支える部分では通じるところがあります。こころのままに受け入れてもらえればと願っています。