きょうは1年に1回授業をする学校へ行ってきた。
レジメはここ3年変わらない。一部を最新のデータに入れ替えるだけ。
「無精者」と言われるかもしれないが、これでも生涯で後はほとんど会う機会のない人たちに、私が90分時間を与えられたとするなら言うべき内容は極めて制限される。
それなりに自分としては精選した内容のつもりだ。
それでも実態は毎年話すことが微妙に違う。
話す相手が違うし、私がいま置かれている立場も異なる。
だから同じ話にはならない。
帰りに2つ下の古い友人と駅まで一緒に帰った。
途中、私の「欝」に話が及んだ。
「ま、ボチボチ。治るということを考えないからいいんじゃないのかな」
と、僕は答えた。
薬は飲み続け、まるで薬中だが、これが普通と考えれば別に悪かない。
ときどきはっきりと自分の状態が悪いことがわかる。そうなるとどうにもできないが、そういう状態にある、ということがわかるというのは狎れてきたのだ。
講演でも、ときどき自分の病気を告白してしまうことがあるが、そうした後には必ずのように、
「実は私も…」
「私の妹が…」
と話しかけてくる人がいる。
人によれば、この病も「流行」だというが、少なくないことは確かだ。
昔、若い頃、会社の同僚がこの病にかかり、医者に行くことを勧めたが、親も含めて、頑として行かなかった。
「キチガイ扱いをするのか!」と怒鳴られたこともある。
いまはさすがに少なくなったが、まだいる。
身体に病気があるように心に病気があってもおかしくない。
「胆石で」と言うのと、「ウツで」と言うのとどこが違うというのだ。
胆石が傷むように、心もときどき傷むだけの話ではないか。
もちろん胆石の人間が傷みで仕事に出ていけないように、ウツ持ちである私は原稿をちっとも書けなくなることがある。
どうもこの病気、他人様には「怠け病」に見えるらしいので、また、自分自身もその境界があんまり明らかではないので、困るが。
だから不眠とか、閉じこもってしまいがちなときは、「行こう病院へ」と言いたい。
導眠剤を飲んで眠ることができたときの感激は忘れることができない。
ほんとうは、こんな話を書くつもりはなく、「編集者」について書こうとさっきまでは思っていた。
つまり、どういうことかと言うと、
書いた人間は自分の文章がおかしいことがわからない、
ということだ。
私の書いた文章がもともとそんなに上等でないことは認めるが、自分が何度読んでもおかしさがわからないことが、編集者には見える、ということを言いたいのだ。
自分が考えることと書くことは微妙に食い違っており、自分の回路では繋がっていることが、第三者には違和感が違和感としてわかるのだ。それだけ、書きなぐっていることを証明しているのかもしれないが、私は編集者のいない著作というものを信じない、というか、編集者に見てもらえるのがいい。
私も他人の文章を編集者として読むことがあるが、やはりその人はこう言いたいのだろうが、この表現よりは…
と思って朱を入れる(実際はクロエンピツなのだが)ことが少なくない。これは書くものの宿命みたいなものだ、と悪筆家は思うのだ。
引越し先にもようやく馴染んできた。まだ、どこに入れたかわからないで困るものがあるが。
最近、また発見したことは、まだ徹夜に近いことができる、ということ。ほんとうはそれだけ追い込まれたということなのだが、やればできる、ということだ。
忙しい、というのは一種の快感でもある、と昔よく感じたことをまた一寸感じた。
かつて徹夜をして、夜が明けて、そして仕事が仕上がると、外に出て深呼吸すると、何とも言い難い「いい気分」になったものだ。
「清々しい」とは、こういう気分を言うのではないか、と確信したものだった。
老いてその気分を忘れかけたが、あのときの「いい気分」をまた思い出したりしている。
健康診断の問診項目に鬱もそっと当たり前にたずねるようになったようです。答えている方も増えています。
身体の病気も心の病気もありますよね。
そういえば。。。最近、私は徹夜ができなくなりました^^;;
気合足りないのかな・・・
tamagoroさんは徹夜する必要がないように計画的に仕事をされているからでしょう。
たまには(年に1回くらいは)徹夜するのもいいです。一種「躁」状態にあり、頭が覚醒状態に陥りますから、寝ようと思ってもなかなか寝付けないものです。
その後2~3日は辛いですが。