例えばこんな習慣がある。
東アジアのある地域では小さな子どもの死に際し、葬式をしない。
それは後に生まれ変わり再生することを願うからだ、という。
日本にも昔、こうした習慣があった地域がある。
小さな子どもの死に際してきちんとした葬式をしなかった。
貧しく、医療サービスがいきとどかず乳幼児の死亡率がすさまじく高い時代のことである。
戦後の日本では乳幼児の死亡率が急激に減少し、その結果、死亡率も低下し、平均寿命も伸びた。
小さな子どもの葬式をしない
と聞いて、生まれ変わっての再生を願うという観念が当然とされる子どもや母体に危険な状況だったのだな、と考えられる。
この習俗は一面では善意である。子の死の事実をつきつける葬式をするにしのびない、と考えたからである。そうすることで、親や家族の悲嘆をなくそうとしたのであろうから。
民俗学者の考えるのはここまでである。
似たような習俗に子どもが死に、埋葬、火葬する場には親は付き添って行ってはならない、というものもある。
これも子を亡くした親にそこまでさせるのにしのびないからという善意の配慮があったのであろう。
しかし、これで解決したのであろうか?
葬式をしないことにより母親の慟哭は強制的にこの習俗により封印されたのではないか?
火葬場に行きたくとも行けなかった親は火葬し、焼骨となることを体験しなかったために、悲嘆が宙ぶらりんの状態におかれるということがあるのではないか?
事故の現場、あまりに惨状のため、周囲の人が肉親に対し「みないほうがいいですよ」と善意で声をかけることがある。特に女性の肉親には、こうした善意の配慮が行われる。
しかし、本人が望むのであるならば、現場を見させ、火葬の現場に立ち会うことを止めさせることは全く誤っている。誰も肉親の死の事実に直面したい、そうせざるを得ないという想いを阻止する権利はない。
習俗はおそらく最初は善意でこうした習俗をつくり、そして禁忌にまで押し上げてしまったのであろう。こうした事例はよくあることだ。
こうした肉親、近親者の想いを阻止し、封じることは、肉親や近親者(血縁とは限定しない)のグリーフワークを阻害する行為なのだ。
民俗学者や人類学者は、肉親・近親者のグリーフ(死別の悲嘆)に対しての配慮が欠けていることが多い。
ケガレや禁忌については書くが、その由来とそれによる弊害に対する人間としての想像力を欠くことが少なくない。
今でも習慣だからといってこれに類似したことが行われている。まだその種の習俗の残存を認めて納得するという民俗学者も少なくない。習俗にかつての人の死への想いを見るとともに、そこに残虐な他者の視線が同時に並存しているという事実も見極める必要がある。
グリーフ(死別に代表されるほどの激しい悲嘆)についての本格的な研究は戦後、特に欧米で開始された。
だからといって戦前に、戦前の日本人遺族にグリーフはなかったかのように言うのは暴論である。
(追記)
ちょっと怒って勇み足でしたね。
全ての民俗学者がそうだというわけではないです。
11月17日
想像力が欠如した民俗学
昔、実父が亡くなったとき妊婦は火葬場に行ってはいけないんだと伯父や親戚に言われ、どうしても行きたいと言っても取り合って貰えず、子供の中で自分だけが火葬場にいけなかった。
その時におなかにいた子供が嫁ぎ、自分達夫婦が楽しみにしていた孫をやっと授かった。
ところが生まれてくる孫に会わないまま、夫が心筋梗塞で急逝してしまった。夫の葬儀では「妊婦は火葬場に行ってはいけないんだ」
などと言う人は誰もいなくて、無事に娘は大好きだった父親とのお別れが出来た。
昔自分がそう言われて自宅で一人留守番をし、皆が帰るまでの長い長い時間を悲しく過ごした思い出がその時咲いていたきんもくせいの花の香りと共に甦った・・・・と
聞いた話を思い出しました。
本人が望むのであれば、誰にも阻止する権利などはない。本当にその通りですね。
葬儀の現場や、お客様との会話の中でそのような場面に直面することもよく在ります。
悲しみのプロセスをふむことの大切さを又心新たにしました。