ちょこっとだけ

「直葬」についての取材が多い。
いろんな面から考える。
そもそもこれを選んでいる人は一通りではない。
いろんな理由や考えがあって、それがもっとも単純な方法に行き着いている。
そして終わった後に悔いている人もいれば、さっさと日常世界に復帰する人もいれば、形は簡単であったが、どっと疲れて寝込んじゃう人もいるだろう。

葬儀の方法が地域で決まっていたとき、いろんな複雑な感情が、その中に押し込まれ、ある人は苛立ち、ある人は諦め、ある人はそれで満足し、ある人は悲嘆を閉じ込め、ある人は声には出さないが怒っていたんだろう。

多様性というのは今始まったことではなく、ある種のタブーがあったときには表面化せずに地下でとぐろを巻いていたのだと思う。

変化というのはすこーしずつではなく、いろんな不満が溜まったところで噴火し、それが大きいのやら小さいのやら中くらいのやらが、あっちこっちで少しずつ意味合いを変えて起こり、それが一つの流れになっていく。
しかし同床異夢ということがあるように、相互には向きが違ってたりする。
伝言ゲームで言葉が変化していくのに聞いた人間は理解したかのようにして別に置き換えていく、そんな感じかな。

記者さんに説明しているうちに自分の見方があっちこっちに飛び跳ねる。聞いている人には迷惑な話だろう。

怒ってみたり、嘆いてみたり、同感してみたり、いろんな人間関係のコンテキストがそこにあるわけで

死というのは同じ死があるわけではなく、われわれが言うのはある断面での傾向らしきものを引っ張ってきてつなげるような作業だから、当然そこから落ちこぼれる例があり、そっちの方が多かったりするわけだ。
私が「死はきわめて人間的なこと」と言うのは、それぞれの固有性があり、そこを見ないで、ある価値判断だけで切っていくと、とてもおかしなことになってしまう、と思っているからだ。

仙台でなくしたケイタイは依然として見つかっていない。
ゆえに、今のケイタイの電話帳はスカスカしている。
10年以上の人間関係をご破算にしたような感じがする。

ケイタイではないのだが、事務所で「kさんから電話です」と言われ、てっきりさっぱり連絡をよこさない後輩のkからだと決め付けて、乱暴にこたえたら、同じ姓でも年上のkさんからで、すっかり失礼してしまった。
そうケイタイのメールでもあった。パソコンのメールでは出した人、出した先が本文に書かれていることが多いが、ケイタイのメールは電話帳に登録されていることが前提なもので、誰から送ってきたものかわからないで推量してしまう。2~3回やりとりして、別人だったりした。あ~ケイタイ紛失がこんなに面倒なものだとは

「ケイタイをもたない」という人がいる。何かすがすがしい感じがする。

仏教界のアンケートで、「自死はよくない」と答えた僧侶が7割とか。かつてはキリスト教界でも「自殺者の葬儀はすべきか、するとしたらどうすべきか」というもっと酷い議論が公開の席で行われていたものである。
また、そろそろ「自殺はよくない」とノウテンキに上から目線で語る輩が出てきている。
自分の将来だって自分ではわからないのに。

何でもありうることである。それこそ人間だから
人を殺すのは刃物や爆発物や、そうした物理的なものだけではない。
殺される側だけではなく、殺す側にも人間は容易になる可能性がある、ということはとことん刻み込んでおかなければならない。
知らないうちに加害者になっていた、なんてことはよくあることで、私が怯えるのはそういう自分であることだ。

習俗だって人の心を抉り、殺人することがある。殺されるよりもっと酷い目にあうこともあわせることもある。
皆善意を装っているが、善意ほど厄介なものはない時もある。もちろん善意が救ってくれる場合もある。

こんな言わんでもがなのことを、きっと皆本心では知り尽くしていることを、言っている自分が恥ずかしいのだが。

一時「倫理」という用語をつかうことが恥ずかしかった時がある。
そのとき私は倫理という言葉が一人歩きを始めて、個々の状況、事情に目を瞑り、切り捨てていっていくさまを想像していた。
今は、倫理の一人歩きこそ暴力で反倫理だと思っているが。
他人のことを言っている場合ではないのだけれど

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「ちょこっとだけ」への1件のフィードバック

  1. 仕事上直葬について、最近聞かれる事が本当に増えてきました。病院から真直ぐ火葬場に行くことが出来ると聞いたとか、火葬式??って何ですか??とか、炉前葬?って何ですかとか。それって何ですかと反対に聞きたくなるのです。
    何だかいつも思うのですが、流行のような扱いで人の死や弔い方がが取り上げられる印象があるのは考えすぎでしょうか?
    人の死や弔い方が浅くなってきているのではと思ったりもしてしまうのです。深い・浅いではなく求められているのだと葬儀社に勤める友人が言っていましたが、果たしてそうでしょうか?何だか流行を作られている気がしてしまうのですが・・・。私はもっと死に対して真正面から向き合うべき時代が来ていると思うのです、暮らしていたはずの自宅にも戻らず(狭いから?とか聞きますが)いや、戻れず、息つく暇もなく、生きているものの時間の都合でさっさと火葬・・・。何とかしなくてはいけないのではないでしょうか。死はもっとも深く生を考える時間を故人が与えて下さっている時間だと私は感じます。

コメントは受け付けていません。