クリスマスが嫌い

なんというか、もうクリスマスという時期が過ぎて、歳末という雰囲気が漂っているきょうこの頃です。

その過ぎていったクリスマスですが、もう「季語」ですね。
別にノンクリスチャンがどさくさに紛れて踊って、と批判するのではないのです。

クリスマスの語源は別にいい、「キリスト降誕祭」か「キリスト生誕祭」かなんてどうでもいい話だ。
大体が世に「キリスト」と言われる人は「イエス」という歴史的存在であった。

12月25日を祝うようになったのは4世紀とか言われる。
日本で「クリスマス商戦」が始まったのは明治30年代とか。
これは「ウィキペディア」を見ればすぐわかることだ。

だいたい調べていけばいろんな宗教や文化が混淆したのが「クリスマス」というヤツだということが容易にわかる。
もちろん「イエスが生まれた日」が12月25日だという根拠はどこにもない。

私が子ども時代は貧乏牧師の家庭で育った。
12月は、25日と言わず何回もクリスマスが行われ、私は父に連れられて、いろいろなクリスマスの祝会に出かけたものだ。
豊富だったのはクリスマスケーキだ。
家族で正月まで食べきれないほどたくさんもらった。
ケーキはもういい、という気分だったが、くださった方のことを考えると言ってはならない言葉だった。

世間になかなか認知されないキリスト教であったが、唯一市民権をもったのが「クリスマス」であった。
教会では「正しいクリスマス」と「間違ったクリスマス」とを比較し、唯一世間を見下せる日だったような思いがする。

そもそも根拠のない祭だから、誰がどのように祝おうと勝手なものだ。
教会が「クリスマスやーめた」と言っても、論理的には矛盾がない。
「恋人たちのクリスマス」だろうが、何だっていいのだ。

でも、子どもの頃から植えつけられたものだから、クリスマスには讃美歌のいわゆるクリスマスソングに狎れ親しんでいるのも事実だ。

昔クリスマスで嫌だったのは「プレゼント交換」だ。
皆それぞれ秘密にプレゼントを用意し、混ぜて誰のプレゼントが誰に渡るかわからないという「運」そのもののゲームだ。
中には自分が出したプレゼントが自分にあたって憮然としていた者もいた。
何故かそれが嫌いだったが、皆が楽しそうにしている気分を邪魔しちゃいけないし困った。
僕が用意したプレゼントはいつも無難な物ばかりだった。奇抜な物を用意して注目を受けたくなかった。

クリスマスというのは周囲の環境からいって「嫌い」とは言えなかったが、実は好きではなく、どちらかというと不得手で嫌いに近い感情だった。

12月31日の夜は除夜の鐘。これに張り切っている僧侶たちもいる。

どうも昔からどこかひねていて、皆が楽しむのを遠目で見ている自分がいる。素直じゃないのだろう。
歳を重ねてもこうだ。
かえってひねり具合を増したようだ。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/