座ってばかりいると腰が痛くなる。
どうもこのところ断続的に痛い。
でも、昔よくやったギックリ腰ほどではない。
このところ風が強い。一昨日の夜は、私は薬で眠ってしまっていましたので、まったく聴こえなかったのですが、あまりに酷く、家族は雨戸を閉めたようです。
19日のBSフジは、生番組の2時間、途中のコマーシャルやニュースも短く、お茶を一口吸うくらいの余裕しかなかったため、また家族に不評をかうほど五月蠅くしゃべりすぎたために疲れました。
同じ2時間でも講演ですと、それなりに話したという実感があるのですが、今回は相手が多く、こんなに時間が少ししかないんだ、と思いました。
普通は某局では、10回以上(特別か?)事前にシナリオ交換をして本番ですから、言うことも決まってきて、筋がわかるのですが、今回、予想をしたとはいえ、ブッツケ本番でしたので。
でもアシスタント・ディレクターの方がフロアで「1分」とか書いた紙を出しているのを見ながらも、無視して、悪いことをしました。
どうも話すことでは欲求不満なので今、文章にしているところです。
かつて『大往生』という名の本を永六輔さんが岩波新書から出してベストセラーになりました。
そのときは死や葬式も茶の間の話題にできる時代がきた、と喜んだものですが、死を「縁起ではない」とする感覚が、まだまだ根強いものだと改めて感じました。
「私は葬式をしない」と言うだけなら、家族がどう思うかは別にして潔いのですが、「葬祭業者が悪い」「僧侶が悪い」と言うのはどうかと思う。
彼らと付き合うようになると、いい人がたくさんいるわけです。
ですから私には言えません。
批判はしますよ。
慣習に不慣れということはある。
わからなければなんでも訊けばいい。
親の葬式の場合、子はどうしても正常な判断ができない状態になるから、子の配偶者とかちょっと半分距離のある人にいろいろやってもらうといい。
私は、死、葬式の問題を、「金」をとっかかりで話すのは、嫌いなのです。
ある時仏教会の会長さんが「皆カネ、カネと言う」と怒って席を立ったことがある。それと同じ気分。
別にお金がどうでもいいことではないのですよ。わが家にしても稼ぎが悪いから、「贅沢な葬式」なんてできるわけじゃありません。
でも、ですね。私は昔の人間ですから、金の話は後なのです。「金の話」は下品なのです。
どうせ自分たちが出せる以上の金は使えないのですから。
「死ぬ」という大事業に比べたら、あるいは「死なれる」という大事業に比べたら、小さな葬式も大きな葬式もそこでは大差がないのです。
つまりお金を出して大きな葬式をやればいいというものでもない。
どこか目的地に行くときに、脚が悪いとする。
リヤカーで引かれて行くか、軽自動車で行くか、ブルーバードで行くか、クラウンで行くか、フーガで行くか、リムジンで行くか
というような具合で、平均がブルーバード(今、シルフィ)だからと言って200万円もする、と文句を言っているみたいで。
私だったらさっさと軽自動車に乗って行くが。
それでも歩いて背負われて行くよりずっといい。
またリムジンに乗るのは気恥ずかしい。
問題はその先にあるわけだから。
何か悪いのは業者のせい、とするのが許されるのが葬式の世界。
一生懸命働いている者の身にもなってみろ、と言いたくなる。
そりゃ悪いのはどこの世界でもいる。
でも皆が悪いわけではない。どこの世界も悪いのは同じくらいいる。
でも少数派だ。私が見る分には。
もっとも口下手な人は年寄りに少し多いかもしれない。
あまりに世間から偏見と差別の目で見られたものだから警戒心があるかもしれない。
でも若いのにはそういうところがまったくと言っていいほどない。
清々しい。
もっとも彼らの仲間も普通に彼らを見ているようだ。
やっぱり40代以上の年寄りがいかん。
そう言えば、80歳以上で亡くなる方の割合が07年の統計から50%を超しました。全体の死亡者数を100として。
『「お葬式」はなぜするの?』が増刷になるのを機会に修正しました。
(よく言うのだが昭和初期には80歳以上の死者は全体の1割もいなかった。だから「長寿にあやかろう」と賑わいのある葬式もあったとか。)
これを「大往生の時代」と言い、生ききるのだから葬式不要と言うが、これは別な表現をすれば「超高齢社会」というたいへんな世界。
日本人は今まで体験したことのない時代に入っている。
介護する者だけではない、介護されるほうだってたいへんだ。
死ぬのも死なれるのもたいへんな時代なのだ。
しかもいつ死ぬか、どう死ぬか、自由意思で選択しているわけではない。
「生きるエネルギーが枯渇しているから自殺する」(???絶句)
私は「他人様のいのちには軽々しく口を出すもんじゃない」と思う。
ストレスがウツを招き、ウツが自死志向を招くのか、ウツが最初にあってなのかはわからない。
自分もウツもちだが、このメカニズムは理解できない。
でも家族や友人・知人に自死された者はこんなはしたないことは言えない。
葬式に関する実用書のバカバカしさというのは、具体的な死者、具体的な遺族がいてその葬式は固有に成り立っているのに、一般的な事例を大過なく過ごすことを目的として書かれていることだ。
そこに死がリアルにあるという認識なしに語られるマナーの薄っぺらさには呆れる。
自分も書いていて、そうはなるまいと思うのだが、自信がない。
ちょっと待っている時間ができたので書いたが。どうも、書くほうもどうでもいいことを饒舌に書くようになったと見える。
島田裕巳という学者は、昔オウムで次、創価。今度は葬儀で飯を食うつもりでしょうが、一体葬儀や葬式仏教の何を研究したつもりなんでしょうか。
著作の内容は、ネット上に転がっている程度の素人情報に埋め尽くされています。
完全に間違った事情通です。
真実は
葬儀社は過酷で儲からない。社会的地位も低い。でも多くの従業員、特に若い従業員は一生懸命働いています。
多くの僧侶、特に若い僧侶は、みな真摯に生きています。
実際に会ってみれば分かることです。
島田裕巳という学者は、社会事象を扱っている学者なのに、当事者への取材が甘過ぎる。
主催者側の思惑もあり、奮闘していらっしゃった。お疲れ様でした。今日も朝の番組でも葬儀について数分か取り上げていました。この手の番組がちょくちょく放映されればそれなりに視聴者も見方がわかってくるんでしょうけど・。まだまだ番組(メディア)主導ですから。昨晩・(うちのほうでは・・。)某局で柳田センセの番組がありました。
難病の患者さんとその家族がどう生きるか・・生きているか 『命は誰のもの?』という問いかけも胸にささりました。うまく言えないですが、生を考えることで死も考えれるんだろうな・・・などと思ったことでした。
はじめまして。葬儀業界の広告宣伝企画を行っている駆け出しの者です。
BSハイライト拝見いたしました。
放送での碑文谷様のお話を聞き、葬儀業界に携わる者の一人として、文化背景や実情をもっと学ばなければと刺激を受けました。
こちらも多少喧嘩腰であったのは反省しています。64にもなり、あまりカッカとなるのはみっともないですね。
もう少し落ち着いて話せるように、いまさらながら思います。
ハイライトを見ただけでもおわかりのように、私にはドモリがあります。これも聴きにくくしている原因です。
この歳になってのドモリの矯正は考えていません。その点、お聴き苦しい点、ご容赦いただければと思います。
「ブログをすると品がなくなる」というのは私に関してはあたっています。
これからは若い人たちが文化を担っていかれることと思います。その橋渡しになれれば望外の喜びです。
当日は、観る事ができず、Webのダイジェスト版を拝見しました。碑文谷先生の奮闘に感謝しています。グリーフの配慮の無いままでは葬儀も、宗教も存在しなくなるような危機感を覚えました。更に一層の努力が必要だと思いました。頑張ってゆきます。
これからのお葬式は・・で述べられていた、死者への想い・遺族のグリーフは、葬儀の現場に携わるものにも私のように葬儀の事前相談から葬儀に携わる者にとっても、進み方を教えていただいたような気持ちがしています。人間には色々な生き方、死に方があって死者への想いと弔いをきちんとすること・・本当にその通りですね。SOGIで初めてグリーフを正面から捕らえて連載されていた橋爪先生の講義を拝聴させていただいた直後、当時勤務していた葬儀社で、緊急グリーフワーク研修を行って、葬儀社のスタッフがグリーフに無関心ではいけないのだと息巻いた自分を思い出しました。グリーフの勉強は今も続けています。今日もグリーフの研修会から帰ったところです。葬儀に関する報道が最近とても多くなっていますが、中には繭を顰めてしまうコメンテーターが多く、碑文谷先生にはもっともっと正しいあり方を発信していただきたいと願わずにはいられません。
お疲れさまです。もう20年近く教科書、参考書として拝見しています。創刊後Hp、ブログなどでタイムリーリにいろな意見に出会えて参考になります。初めてグリーフケアという言葉にふれたのはsogiの21号だったかなぁ…。公益社の企画室長だった大竹さんが「死の喪失は失恋を体験したときの感覚に等しい…」と誌上でおっしゃっていたこと、それをうまい表現をする人だな、と思ったこと、昨日のようにおもえます。その場面場面で、いろんな要素がはいって目に見えない想いを実現化していく。それが私たち葬祭サービスに携わるものの使命と銘じて日々精進していかなければならない。…と思うのですが…、特別なコトと考えず普通に対処し、少しだけ気配りをしてさしあげることができれば、そして…グリーフという言葉だけが一人歩きしてもけっしてよいサポートにはならないと思います。
葬儀の役割を今一度考えてみる必要に迫られているとおもいます。編集長さま…どうぞ誌上からネット上から叱咤激励をお願いします。