少し暖かく、いつ雨が降るかもしれず…という天気
このところ、たいしたことでないことに追いまくられたり、目的のはっきりしない会話をしたり、ちょっぴり怒ってみたり
時間が曖昧に流れていく、という感じを味わっています。
他人と話をするのに、すぐ目的を探す悪い癖
目的がなくてもいいじゃないか、と思ってみたり。
おそらく他人にとっての自分のもつ役割がはっきりしていると安心して話せる、という習性のようなものが、いつのまにか身についているのかもしれません。
反省というほど大げさではなく、思っています。
呑み屋ではまったく意識しないで話すのですが。
先ほど蕎麦を食べ、書店に寄りました。
その書店は小さいのですが、本の選び方が上手で、寄ると何か買うのですが、きょうは雑誌2冊に文庫3冊
このところ買ってはまだ読んでいない本が積んであるので、文庫はどうしようか、と迷ったのですが、思わず手に取りました。
その1冊が南木佳士『からだのままに』(文春文庫)
信州の佐久の病院の医師にして芥川賞作家。
医師で作家の人は多いです。
難民医療チームに参加したりの元気な方かと思えば大病も経験し、さらにパニック障害やうつも体験された、となると親近感は増すばかり。
朝日新聞夕刊に4月2日より(土日除く)連載されていた「人脈記 弔い、縁ありて」が、15日に最終回となりました。全10回でした。
しんがりとして登場させていただきましたが、私個人の周辺の話題は、専ら私のペンネームの由来が書かれたこと。
別に秘密ではなく、親しい人は知っていた話ですが、公にした、というより、すでに由来を前から知っていた記者が書くのをあえて止めなかっただけのことです。
高齢者入り1年前にして、個人のことは秘密なくいきたいと思っただけのことです。
この情報社会、秘密を抱えて生きることは不可能です。また、過去を秘密とする理由も私にはありません。
今の若い方はビックリされるのですが、私たちの世代の私たちの周辺にはよくあった話です。
しかし、今の民主党政権を見ても「政治の時代」ははるか昔に終了していることがわかります。
当時の私たちの政治的な発言の是非が問題にされることはなく、情動みたいなものも反芻されることがないのが現状でしょう。
先年亡くなった沖縄在住の精神科医・島成郎の2冊の追悼集のようなものが出版されており、隅から隅まで何度か読み返すなどしました。
島さんは私よりも10年前の時代を生きられた方ですし、私の学生時代にはすでに伝説の人でした。
ちょっと世代が離れているので、少し冷静に読めるという部分があります。
そう言えば、私が高校生の頃、大江健三郎が『遅れてきた青年』を出しました。大江もちょうど10歳上です。
私は自らを不遜にも「新・遅れてきた青年」と名乗ったことを思い出しました。
もしかしたら、私は「時代」ということを普通の方より強く意識して生きてきたし、生きているのかもしれません。
それが私の偏見の原因の一つかもしれません。