きょうは穏やかな一日
ただし、こちらの心境は迷いだらけ
一条真也さんから本が贈られる。
『葬式は必要!』(双葉新書、本体740円)
島田裕巳さんの『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)の対抗本です。
この人との出会いは、話題作『ロマンティック・デス』以来。
今、島田さんの『葬式は、要らない』の出版元である幻冬舎文庫に『ロマンティック・デス』がおさめられている、というのもおもしろい。
この人と話をしていると、基本的にロマンティックな方で、いまは、若い時の勢いが経営者として苦労しただけ渋みを重ねた感じか。
この人の主張は次のフレーズに要約されるだろう。
日本人は人が亡くなると「不幸があった」などと言いますが、死なない人はいません。どんな素晴らしい生き方をしようが、すべての人が最後に不幸になるというのは、絶対におかしいとわたしは思います。人生を必敗の負け戦にしてはいけません。(はしがき)
本書の最後には元気よくこう書いている。
葬式は人類の存在基盤です。昔、「覚醒剤やめますか、人間やめますか」というポスターの標語がありましたが、わたしは、「葬式やめますか、人類やめますか」と言いたいぐらいです。
この人は博識なうえに読書家。
それは読めばわかる。きらびやかな感じ、というのは表現がまずいか。
そう言えば最近の人は玄侑宗久などを筆頭に博識な方が多い。
一条さんは、専門の孔子からヘーゲル、仏陀、青木新門、玄侑宗久、新藤兼人、上田紀行、上野千鶴子そしていま話題の内田樹その他、全部挙げると疲れるくらい。
その引用も手際がいい。
私の感想だが、おずおず言えば、死を語る時、もっとたどたどしくてもいいように思う。
島田さんは死を一人称に偏して語っていた点が違和感のもっとも大きな点だが、この人にも多少あてはまるか。
死の体験の基本を「親の死」に設定しているのは儒教の影響なせいか。私はとんと儒教に不案内で、服喪規定に余計なことをしてくれた、という反発があるので、遠ざけているから、申しようがない。
しかし、歴史の大きな流れにおいては先の者が死ぬということは言えるが、このようなパターン化は不要に感じる。
死はあくまで固有なもの、ということに固執したいためだ。
一条さんの名誉のために言えば、きっちりと二人称の死についても語っておられるのだが。
いや、でもビックリです。
こんなにすぐ新書で対応されるとは。
一条さんに敬服です。
私も雑誌で『葬式は、要らない』批判を長々と書いたが、この人のと比べると読みにくいです。
新書はスピード時代に入っているようです。昔は岩波新書はずーっと残るもの、という感じでしたが、今や月刊誌なみ。
出版社からの話に「8月になったら考えます」などと悠長なことを言っている私など、もう取り残されますね。
それでも汲々しているのですから。
>人が亡くなると「不幸があった」
というのは、遺族にとっての「不幸」という意味だろうに、下記に連なるのは理解しにくいですね。
>すべての人が最後に不幸になる
これでは、「不幸があった」という言葉を曲げて理解しているように思えます。
柳の下のドジョウを狙っているのでは?
はじめまして。
つい先日より拝見させていただいています。
毎回、鋭く葬儀に関して書かれており、敬服いたします。
最近のお葬式は、正に宗教心、信仰心に乏しく、簡素に、そして何より予算を掛けずになさる方が多く見られるような気がいたします。
否定はいたしません。
しかし・・・
個人的には、予算は別にして、ご火葬だけというのは、どうでしょうか。他に、例えば、自宅で家族だけでも集まって祈ったり、お焼香したり、故人を見送る気持ち、想いを共有するとか。なにか出来ないのでしょうか
せめて、亡くなられた事は公表するべきではと考えます。
生まれた時は、皆、知らせます。
人生の最後は、感謝を込めて送りたいと、
そう願います。
確かに・・新しい提案をして行かないと取り残される・・。しかし新しくなくてもいい事はたくさんあると思う。先人たちの培ってきた想いが・・。私は、その想いを大切にしてその事をきちっと『消費者』に伝えていきたい・・。いままで、置き去りにしてきた遺族の想いも汲み取りながら・・。
月が故郷だなんて・・・。
「葬式」と「葬儀屋」と「宗教」は別々にかんがえましょ。そうでないから今回のような愚作が2冊も世に出てしまう。
私は「葬式」はきちんと行いたいけどその他は出来れば無しにしたいですね。とは言っても「宗教」心がないわけではないのです。強いて言えば祖先崇拝と自然崇拝でしょうか、、、 問題は出しゃばりだけどいないと不便な「葬儀屋」さんの扱いですね。
それから、皆が皆、同じ事をやらなくても良いのでは? それを許容出来ない日本人の偏屈さが大嫌いです。
人の死を弔う方法は人の数だけあってもよいのでは無いでしょうか?
蜆 さんの投稿に賛成
あれは、あわてて出版したのでチェックに漏れたのでは??
私にとって「死」は永遠の安らぎだと思ってますので、壮大な「葬式」をしてもらえないと死後ずっと不幸であっては困ります。
葬儀の価格のみがどんどん取り上げられている昨今、葬儀会館が雨後の竹の子状態で町に林立する中、葬儀はどうしても葬儀社主導から抜けられないように思えます。自宅に帰りたいと言っているのに、この状態では早く冷蔵庫に入れないと・・等と、どう見ても何の問題も無いのに自宅安置を嫌うことを辞めましょう。担当者にとっては毎日あるお葬式の中のたった一件でしょうが、その家族にとっての葬儀はそうではないのですから。
先日の知人の父親のお葬式はそんなお葬式だったそうです。お父様がかわいそうですからと言われてしまっては、反論できずとうとう自宅へは一度もに戻る事無く、三年の闘病後病院から真直ぐ葬儀社ホールの霊安室へ、付き添いたいとの要望は聞き届けられず・・あっという間に葬儀が終ったとずっと後悔し続ける家族。
そんな葬儀社は変わらなければいけません。
勿論 真摯に取り組まれている葬儀社のほうが多いのですが・・・・
葬儀社の偉い方々にはもっと現場を見ていただきたい。
社員教育をしていただきたい。