お布施の話

梅雨らしい梅雨、ま、仕方がないのだが、旅をする身にとってはきつい。こう蒸すと疲労感も増す。

世代感覚の違いというのは確実にある。
首都圏では珍しいものではなくなった「出棺前の初七日」
昨日の名古屋では(何せ愛知と言えば仏教支配地区として全国でも抜きん出ている地域なのだが)、当然のことながら一般的ではないものの、全くないわけではないらしい。

出棺前初七日に対して、50代以上は「おかしい」と言うのだが、
40代以下では「遺族も希望するならとりたてて問題ない」とする人が多いようだ。

葬儀で火葬後の繰上げ初七日はもう一般化しているが、最近では北海道のみならず、繰上げ四十九日(三十五日)、繰上げ百か日、中には繰り上げ一周忌まであるとか。

本来は喪というシステムは、遺族の喪を保障するということでシステムとしても定着してきたのだと思うが、いまは形骸化が進む。

喪、遺族が喪に服するとは、社会的な禁忌である以上に、喪に服すことを許容するシステムであったはずだ。
遺族によるグリーフワークを保障するものであったろう。
葬式の個人化は喪の保障という共同体の行為自体を無意味化しているのかもしれない。
私などは意味を認めず繰り上げるなら、いっそやめてしまえばいいのにと思う。

確かに、遺族にとっての葬式の日は疲れる。火葬が終わるとへとへとだ。そこで繰り上げ初七日ともなると、「やっとこさ」という感じになる。負担が大きい。
火葬後にはもう解放されて、食事にいくなら家族だけで、という気持ちもわからないではない。

月曜日に九州にまた行き(このところ1週間に1回のペースだ)僧侶の方と話したのだが、ある僧侶の言葉が印象的だった。
「東京の話を聴くと、変わったなと思いますが、ウチのあたりでは、まだしっとりとしたお弔いが行なわれているんですよ」
地方の郡部は高齢化率が高く、お年寄りたちが寄り添って生きている。一人が死ねば、もう若くはないから、身体を動かして手伝うことはできないが、寄って、しみじみと皆で弔う。

ついでに言うと、いま仏教界ではイオンの葬儀のことが話題になっている。

5月10日の読売新聞では次のように報じた。

 スーパーを展開するイオンは10日、葬儀の際に僧侶を紹介する「お坊さん紹介サービス」を全国で始めた。同社の葬儀社紹介サービス利用者が対象。はっきりしないと言われるお布施の金額の目安を明示しているのが特徴だ。

 お布施は、通夜と葬儀、火葬場、初七日の4回の読経と戒名の授与がついて、25万、40万、55万円の3タイプ。また、火葬場のみの読経と戒名の授与で10万円。全国8宗派、約600の寺の僧侶と連携している。僧侶の紹介手数料は無料。

 イオンは昨年9月から、カード会員を対象に、葬儀社の紹介サービスを行ってきた。葬儀に関する独自の基準を作り、賛同した全国の葬儀社約400社と契約を締結している。

 この利用者から、「菩提寺が遠いので、僧侶も紹介してほしい」「お布施の金額が明らかになれば」という要望が寄せられていた。

以上、引用終わり。

私の感想は「もはや末期だな」というもの。

そこで全日本仏教会(略称:全仏)では8宗(天台、真言、東西本願寺、浄土宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗)に問い合わせ、このイオンの僧侶紹介、布施の基準化に対する対応を問うた。
今のところ承認したとの報告はないらしい。

「布施」とは経済行為ではない。
しかし葬儀における「布施」は、かつて「お経料」「戒名(法名)料(院号料)」と言われたように、料金化が激しい。
一般の消費者感覚では目安を教えてほしい、という声が現実に多い。

しかし、「布施」である以上は、金持ちはたくさん寄進するが、困窮者はお金の代わりに労働奉仕をする、ということも立派な布施であろう。こうした本来的なことを無視して「基準」化するのは「良心的な業者」であるはずがない。
また、このイオンの行為を認めたら、仏教界は自滅する。

確かにネットを見れば、すでに「布施」という名の僧侶へのお礼が料金化されて葬儀料に組み込まれているところがある。イオンが始めたわけではない。
この背後には地方では過疎化が進み、葬儀や法事の布施が激しく下落して財政的に困窮した寺院経済の問題がある。

「お世話」という美名で宗教行為に事業者は口出すことは一切辞めたらどうだろう。
「何にもわからない遺族が困るから」
と、親切顔で口出すことは辞めたらいい。
「信教の自由」は憲法で保障された基本的人権の一つである。

表で「お布施はお気持ちで」と言い、裏で葬祭業者を通じて「いくらぐらい」と言う寺もダメだ。
本来は個々の事情で異なるのだから、それを考えれば個々で布施の額が違うのは極めて当然のことなのだ。

同じ40万円でも年収200万円の家庭と年収3000万円の家庭では価値が異なる。年収200万円の家庭で10万円なら、年収3000万円の家庭では150万円だしてやっとつりあう。この場合でも年収200万円の家庭の10万円のほうが負担感は大きい。

いっそ「葬儀のお礼の基準は15万円としていますが、お困りの方はご遠慮せず、ご相談ください。また、15万円を超えての寄進は歓迎しています」と張り出すのも一方法か。
住職が決めるのではなく檀家総代会あたりで決めるといい。実際にそうしている寺院もある。

私の知っている僧侶は、父親の葬儀で無理して40万円をかき集めてきた息子に、半分の20万円を返して「今無理することはない。お寺との付き合いはこれで終わりではないのだから」と言ったという。
最悪なのは「40万円で院号込みの明朗料金。後からお寺と面倒なお付き合いは不要です」という業者。こんなのに5万円だって高い。

そもそも寺と付き合いがなくて頼むほうもどうかしているし、生前の本人、家族の事情に無関心で葬儀を勤める僧侶もどうかしている。

過疎地の僧侶が地元だけでは生活できないので、上京し、単身アパートに住み、僧侶派遣プロダクションからの斡旋の葬儀の仕事を、5割も「手数料」として取られながら勤めている。地元で法事や葬儀があれば帰って勤める。
僧侶派遣プロダクションに葬儀を依頼するのも地方出身者。
思わず、その遺族と僧侶が心を通わすこともある。
嗤えない話だ。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「お布施の話」への9件のフィードバック

  1. 先生、まだ簡単に末期にしないでください。それこそ40代以下の私たちの世代は、これからこの現実の中を生きていかなければならないのですから(泣
    世代間ギャップも、ひとつには目の前の現実を受け容れるための本能的な知恵だと思えなくもありません。人の世の正しさというものは儘ならぬものですね。

  2. お布施のお話ごもっともですね!
    なんだか島田さんの本が話題になって
    ダイアモンドの記事が話題になり「お葬式」そのものが変な解釈になっているように思えます。葬儀業界や寺院などの日頃のコミュニケーション努力が足りないのか?それとも日本国民にまったく「死」や「お葬式」に対する興味がないのか?どこへ行くのか不思議な業界になってきました。
    「心」があれば「お葬式」はどんな形にしても大切なものかと思うのですが。

  3. 葬儀に込める思いの多様化が様々な現象を起しているのでしょう。
    葬儀を主催するのは、送る遺族か、自分らしさを出したい故人か、葬儀の宗教行為を強調し布教の機会としたい宗教者か、葬儀文化という伝統を伝えたい葬儀社か?
    布施という言葉を使用していても、辞書通りの意味で布施をする人、読経や戒名の対価と考える人たちがいる。
    それぞれに誤りではなく、現象の多様化の最中にあるだけではないでしょうか。
    イオンはその一角の要請に応えて、仏教会は違う一角を強調しているに過ぎない。
    イオンはビジネスチャンスと捉えているにすぎないのに、仏教会は既得権を守りたい一心なのか宗教介入だと騒ぐ。
    実際に宗教介入と考えている遺族がどれほどいるのでしょう?
    >いっそ「葬儀のお礼の基準は15万円としていますが、お困りの方はご遠慮せず、ご相談ください。また、15万円を超えての寄進は歓迎しています」と張り出すのも一方法か。
    イオンがここまで踏み込めれば、私からすれば望ましい宗教介入であり、これで仏教会が自滅するなら時の流れとするほかはない。
    仏教会が自滅しても日本に仏教がなくなるということもない。色々な学者がその著作により仏教について教えてくれている。
    労働組合を結成したり、月給制で社会保険を支払う?僧侶の存在は不安を増長します。

  4. 『・・それぞれに誤りではなく、現象の多様化の最中にあるだけではないでしょうか。』
    私は、全く違うと思う。
    昔の話をしても笑われるだけかもしれないが・・・。西日本の田舎に育った私は、幸いなことにお寺にも、地域にも恵まれ、《全く》といって良いほどこの話題には縁が遠く、お寺さんと檀家のお付き合いはそこそこにできていると思う。昔はお寺に教え(日常的なことを含め)を請い、そのお礼として自分の糧を差し出していた。その延長がお金になってややこしくなった。
    そもそも、故人を送るのに、縁もゆかりもない見知らぬ宗教者に依頼して葬儀を執り行ってきたことに由来するのではないか。これは我々葬儀業者の所為。なぜそれを阻めなかったのか。これはたぶん宗教者所為。いまここで、イイとかワルイとかの話ではなく何故こうなったのかを考え、修正できるところは修正していけたらいいと思う。少なくとも戒名料・読経料なんて表現はなくなってくるのではないかと思いますが・・・。

  5. umezho様
    >私は、全く違うと思う。
    以下私へのレス、ありがとうございます。
    貴重な一例ですね。
    ただ、一般化できないようにも思えます。
    >そのお礼として自分の糧を差し出していた。その延長がお金になってややこしくなった。
    お米などを貨幣の代わりとしてお布施にしていた時代もあれば、既に江戸時代には黄金をお布施にしていました。また、お米を作る土地や建物もお布施になっていました。
    現在の仏式葬儀は、キリスト教排除や江戸時代の農民などの支配をまっとうするために出来た檀家制度の延長としての性格を持つ物だという認識が私にはあります。
    >そもそも、故人を送るのに、縁もゆかりもない見知らぬ宗教者に依頼して葬儀を執り行ってきたことに由来するのではないか。
    これも良い悪いの問題ではない、と考えています。
    そういう人たちもいれば、そうしない人たちもいる。それぞれで良いと思うし、またこれからの変化もどうなるかわかりませんが、それはそれで肯定します。葬送は人間のする所為です。邪悪なはずがありません。

  6. 蜆 様
    ぶしつけなレスにご丁寧な対応・感謝です。背景はおっしゃるとおり政治的な要素もありますし、周りを含め・・そうな人、・・そうでない人。・・そうな業者、・・そうでない業者。みんなが携わってる。でも・・こと葬儀に関しては、どこかの(失礼)お寺さんの受け売りですが『遺族と寺が、一人の死を共通の悼(いた)みとしてとらえ、その死の周辺に両者がトータルにかかわることができたとき、「その人らしい」葬儀は可能になる。そして寺は必要とされ、同時に葬儀は変わっていく。』と思っており、またそうでありたいと願ってやみません。ホントは「ここに葬儀社」もいれてもらいたいんですけど・・・。・・・というわけでまだまだ勉強が足りませんが努力して良く所存です。またご教授くださればと思います。

  7. 「このお寺にこの値段!!!」
    「このお経でそんなに払うの?!」と感じる寺院は私1人でもいくつか挙げられます 逆にすごくいいお坊さんで、良心的に「いくらでも・・・」「お気持ちで・・・」とおっしゃるお坊さんも・・・ やはりお布施については来るべき時が来たと思います 話は変わりますが韓国スターのヨンハさんの出棺シーンをテレビで見ていたら病院に花輪が飾られ、霊柩車が出棺してたような・・・ 葬儀はいらない 式場も使わない 墓も作らない そのうち日本にもお別れ~出棺のできる病院ができたりするんでしょうか これからすごい勢いで葬儀の業界はこれから変わっていくんだろうなとドキドキします

  8. 「このお寺に・・・」「このお経で・・・」は現場にいると感じますが、先日奈良で話を聞いたお寺様は「何故、お布施をいくらで・・」と葬儀を出す側から言わないのか不思議だとおっしゃっていました。檀家なら今自分がいくらならお布施出来るかを言っても良いのだと。「お布施はいくらですか?」と聞くからいけないのだと。
    「10万円でよいでしょうか」「5万円でお願いします」といえば良いのだと・・・。
    お布施の他に「お車代」はいくらで「御膳料」はいくらでと当たり前のように要求されるお寺が殆どの今でも、こういうお寺があるんですね。
    お車代ですが・・一日1万円のお車代を皆様はどう思われますか?
    お車代2日で2万・御膳料2日で2万を要求されたことがありビックリでした。

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