死に方は選べない

(以下、9日のブログの後半に書いたが、テーマが異なるので分けた)

ある僧侶向けの講演会に行ったときのことだ。講演が終わり質疑応答、意見発表で発言した僧侶が
「葬式において儀式の有用性を説く必要がある」
と語った。
その人の意見はそれでいいが、死者や遺族のことを傍らに追いやり儀式の必要性もないだろう、と私は答えた。
死という事実、リアリティが欠けたところで、どういうリアリティ、力を儀式はもちうるというのか。

中には檀信徒でもない一般の人が仏教で葬式をしない、と文句を言う僧侶がいる。
いわく「葬式文化が失われた」と慨嘆する。
私は檀信徒でもない人が葬式だけ僧侶に依頼する、そのことが不思議で、日本人にそうさせるものは何か、とずーっと考え続けているが。

葬式という仏教と密接に混淆した慣習が死という事実に向き合い、納得させるのに力があった、というのが公式見解ではある。
最初は念仏などに呪力のような力があると考えられたのだろうが、それだけでは持続できない。
おそらく死という情況を引き受けた僧侶や共同体の存在があったのだろうし、今、葬式で緊張感が僧侶にも参列者にも遺族にもないとしたら、「葬式」というイベントだけが浮き上がって、切実感をもち得ないでいるのだろう。

事実としては、その人(抽象一般ではなく固有な)の死を弔おうとしている、また傷ついている人が少数者であっても確実にいる。
またそういう本人を弔おうとする人が不在の時は、誰かが弔い、悲しみを代行しようとする。
全ての人が弔われるべきとの考えが人の縁の外で亡くなった人は死亡地の自治体の責任で弔い、葬ろうとする考えの基礎にある。

それは人間存在をどうみるか、という究極的価値観であり、刑法190条(死体損壊、死体遺棄、遺骨遺棄等)が守ろうとしている社会的風俗としての宗教感情、つまり大多数の人間がこれやったらだめだと最低限共有している感覚であろう。

一昨日NHKでシベリア抑留を特集していた。
証言をしていた人のほとんどが80代。実戦を経験したのは一部もう少し若い世代がいるが、ほとんどが80代である。
死んだ兵士を積み上げて置くと凍る。それを「氷葬」と言ったという。その凍って積み上げられた遺体を埋葬しようとすると、スコップによって身体の一部が切断されたり、首が切れたりした情況を戦きをもって回想していた。
その戦慄が慢性化するまで人は状況に追いやられる。
おそらく、その体験を語った人は一部であり、それも自然にどこかで脚色せざるを得なかっただろう。

究極の状況に置かれたら、人間はどんなことでもする。裏切ることもするし、信条も変えるし、倫理も捨てるし、感情も凍結できる。
批判するのではない。こうした状況は誰にも起こりうることなのだ。

今、「平和」と言われる時代には死者、それも近くにいる死者に戦かなくなっている人がいる。
本来、この戦く、傷つく、泣くなどというのは自然な感情のもたらすものだ。素直に受け取れないときは怒る、感情を押し込める。それもまた人間関係がもたらす自然な感情だ。関係により表れ方が異なるのだ。

私は死をきれいごととしては見たくない。
配偶者を亡くした人が「早く忘れようとした」と語ることがあるが、忘れようとする作業も辛いのだ。

でも正直「いい死に時だった」と思うことがある。それは人間は死に時を選べないから、いずれ死ぬなら、その人によっていい時がある。だからといって、その死が戦慄を招かないのではないが。

「ぽっくりさん信仰」が根強いのは、どうせ死ぬならいい死に時で、という願いが強いからなのだろう。
そしてそれを願う高齢者はさまざまな死を体験しているからなおさらそう願うのだ。

でも人間は死に時を選べない。こうした超高齢社会で判明したのは「大往生」なんてそうあるものではないし、選べるものとは違う、ということだ。

90になっても元気で意気軒昂な人もいる。だがそれはすべてではない。

身体を病み、アチコチが傷み、身の回りの食事、排泄まで他人の手を借り、口も不自由で、他人(家族であっても)に申し訳なさ、屈辱感を抱く人もいる。
いっそ認知症にもなれば苦しくなかろうに、と思う。

しかし認知症だからと幸せなわけではない。5分前の食事を忘れたとして正されるとばかにされたのか、自分だけのけものにされたのかと強いストレスを感じる。持続的ではないかもしれないが、被害者意識のようなものは持続するようだ。身体が元気であれば放浪してしまう。結構長い距離を歩くものだ。

そして肝心なのは、仮に長生きしても、その自分の行き先をどれにするかは自分で選べないのだ。
元気な人は心がけがよかったわけではなく、単純に運がよかったからだけなのだ。

高齢者だけではなく、それをケアする家族もたいへんだ。
介護する娘も高齢期に入り、どっちが先に逝くかと真剣に不安になることもある。
母親介護のため会社を辞めた息子もいる。

昔は結婚時に男が30歳、女が20歳などというケースも珍しくなかったから、男は家族に看取られて死ぬもの、と頭から決め付けている。
だが、そうはいかない。ここまで高齢化が進むとどっちが介護される側に、どっちが介護する側に回るか、予測がつかない。男性が妻を介護しているケースも珍しいものではなくなった。

介護保険は「家族による介護」ではなく「社会による介護」へと変えたというのは家族による介護にもう依存できなくなったからである。
また社会による介護といっても万全ではない。
それを万全にしようとすると、あちこちが綻びる。きれいごとは言えない世界だ。
介護保険制度が始まった時、専門学校や大学のその系統は多くの学生を集めた。今、それを志願する人は少ない。

簡単に解のない世界である。
でも、どうにもこうにも逃げられない世界である。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「死に方は選べない」への8件のフィードバック

  1. ≪葬式において儀式の有用性を説く必要がある・・死者や遺族のことを傍らに追いやり儀式の必要性もないだろう、≫おっしゃるとおりだと思います。有用性など、わざわざ説かなくてもいいんです。その人の死をそれぞれの立場で想い、悼むことができれば・・その空間を導いてくれさえしたら、自ずから信心がめばえてくるのではないかと・・・。行事から仏事へ・・・。
    でも・・お寺さんも変わってこられました。葬儀の場で有用性の説明ではなく、宗旨の説明と、儀式について細かく『こういうふうにして亡くなられた方を導き、おおくりするんですよ』って話してくださる。そうすると自然に葬儀の場を共有できる。いいなぁっておもいます。

  2. 私の実家は日本海側の寂れた温泉町で・
    昔はかなり賑わっていた町なんですが。
      お盆です。盆踊り[E:smile]。私は小学校のころから盆踊りの太鼓を叩いていて・・。夏休みの・・いや年中行事の中で最も大事な行事だったのです。盆に・・というよりは只、太鼓を叩くだけ。でも・・今は。。たまにしか帰れない実家のお盆ですが・・昔のおじさん達の顔が浮かんでくるんですよね・・地域のお盆を・・お弔いを担ってきたおじさん達。もう、鬼籍に入ってしまったひとばかりなんですが・・。またお盆に想っています。

  3. プロテスタント基教や共産主義圏の国では、お葬式は簡素ですよね。ムダがない。
    そのうち日本も病院から火葬場そして墓と直行して、ポイ!葬式なんてムダなんだから。
    本人さえよければ、それでいいかも。

  4. >そのうち日本も病院から火葬場そして墓と直行して、ポイ!葬式なんてムダなんだから。本人さえよければ、それでいいかも。
    僧侶というより、一人の人間としても、やはり上のようなコメントを目にすると、その説明の過程として「葬儀の有用性」を説くのも分からなくありません。
    葬儀という儀式も、社会的な機能として有用性は問われて然るべきなのではないでしょうか?それのみで終わってはもちろんいけませんが・・・。

  5. かの有名なモーツァルトは
    死後、共同墓穴にポイと捨てられ
    遺骨さえもわからないが
    僧侶は
    キリスト教イスラム教など
    他宗教とくらべても
    仏教が最も正しい葬式を行い
    一人の人間としても
    世界中の民族の中でも
    仏教徒がエライ!
    ということですね
    素晴らしい!坊さんガンバレ!(笑)

  6. >「葬式において儀式の有用性を説く必要がある」
    確かに、葬儀に儀式性は必要だと思います。
    しかし、その前に議論されなければならないことの方が多く、それらに比べれば儀式の有用性の議論は比重は軽くて良い。
    今尚仏式葬儀が揶揄されているかの議論です。具体的には戒を守っていない僧侶から得る戒名とその値段。読経の内容と葬儀との関連。故人を見送る人の儀式への関心…
    檀家制度のもとで強制された仏式葬儀。その頃からあったという読経・戒名に対する高額な布施とその取り立て。
    それでも我々の祖先は仏教徒を続けてきた。お上の圧力があったし、お寺の力を借りる有用性もあった。
    今との状況の違いに応じた変化が期待されてよいと思われます。
    >私は檀信徒でもない人が葬式だけ僧侶に依頼する、そのことが不思議で、日本人にそうさせるものは何か、とずーっと考え続けているが。
    最近のフランスでも教会に行かなかった人も葬儀の時に、キリスト教式でする人もいると言われているようです。
    「儀式」に付きまとう「宗教性」が人間には必要とされるような気がします。
    私自身は儀式としては「なんとなく仏式」「なんとなくキリスト教式」でも良いと考えています。
    この観点から、「直葬」も念仏を唱えれば、「立派な仏式葬儀」として僧侶から批判される筋合いのものでもないのではないか、とも思えるのです。
    大切なのは儀式に込めるそれぞれの想いです。「儀式の有用性」を強調する場合、議論の最中にこの視点が抜けてしまいがちです。
    「社会への告知」というのも故人の年齢、社会的地位などにより「儀式の有用性」に差があります。これらを抜きにしてたとえば一律な「仏式葬儀」の有用性の議論をしてもなにも解決しない。

  7. <「直葬」も念仏を唱えれば、「立派な仏式葬儀」として僧侶から批判される筋合いのものでもないのではないか、とも思えるのです>…….ただ、念仏を唱えれば・・・いいの?じゃあ・・信心て・・なんでしょう。それから得ることのできる安心は・・?
    <大切なのは儀式に込めるそれぞれの想いです。>ごもっともなことですが・・。今のお葬式・・・。あまりにも、儀式化し過ぎて・・。肝心の想いが・・どこかへいっている。費用とか・・・。司式しゃへの批判とか・・・。我々、葬儀業者が『戒名料』だとか、『払う』だとか、こういった表現を控えなくてはならないと思うのですが・・私だけ?

  8. 私へのコメントになっていると考え応対致します
    >「直葬」も念仏を唱えれば、「立派な仏式葬儀」として僧侶から批判される筋合いのものでもないのではないか、とも思えるのです>…….ただ、念仏を唱えれば・・・いいの?じゃあ・・信心て・・なんでしょう。
    念仏を唱えれば阿弥陀様に救われるという信心の人にはたぶんそれで良いのかと思われます。もともと阿弥陀様への他力本願。それ以外に必要な形式があるとすれば自力になってしまいそう。念仏への信心がこれなのではないかと考えています。
    >それから得ることのできる安心は・・?
    故人や遺族やその他の見送る人たちがいます。誰にとっての「安心」をいうのでしょう?また、一言「安心」といっても、その中身には上記立場などにより色々なことを含ませることができます。費用の面を除いた「安心」を語ることは難しいですね。
    ><大切なのは儀式に込めるそれぞれの想いです。>ごもっともなことですが・・。今のお葬式・・・。あまりにも、儀式化し過ぎて・・。肝心の想いが・・どこかへいっている。費用とか・・・。司式しゃへの批判とか・・・。
    「肝心の想い」はどこにも行っておらず、常に存在していると思います。費用や儀式への不満などの別問題が覆い隠しているだけかと…。
    高額な葬儀で満足する人や、小額なのに高い!と不満を持つ人など一言で語れないのも葬儀という儀式なのでしょう。
    >我々、葬儀業者が『戒名料』だとか、『払う』だとか、こういった表現を控えなくてはならないと思うのですが・・私だけ
    現実に仏教徒でない人が、なんとなく仏式で葬儀をすれば、戒名は対価となり、布施も「支払う」対価で良いし、そのように在るべきだと思います。この点、仏式であることから僧侶は違う説明をしています。仏教徒でない故人や遺族の「想い」にあわすべきか、僧侶たちの「思惑」にあわすべきか?
    決断が必要な気もします。これからも永く広くお付き合いする僧侶に合わすことになるのではないでしょうか?

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