難しい

また家族の意思での脳死判定、臓器移植があった。
このところ連続している。

私自身はカードに脳死判定、全臓器提供意思を記入している。
但し、肺はもとより、使おうとしても使用可能な臓器あるかどうかは別問題である。

延命治療にしても本人の意思が事前に明らかでなければ、結局のところ家族の意思にその判断が委ねられるというのは家族にとって厳しいものである。
まして臓器移植は、一般論から言えば、若い人の臓器が対象になる。交通事故とかそうした突然の事故死等のケースが多い。
そこで判断を迫られる家族ははたして正常な判断が可能か?

「臓器の一部でも生き残れれば」というのがマスコミ報道からの家族の判断の理由ということだが。おそらく単純化するのは難しいだろう。

考えてみると、これからは臓器再利用が可能と思われる人の臨終時(臨終というのは死に臨んでいる場面で、死亡を意味しない)には、ほとんどの家族は臓器提供について意思表示を問われるということだ。「嫌だ」というにしろ。

一方で臓器提供以外の治療のすべがない患者がいることも確かなことだが。

臓器移植法の急いでの改正の理由には国外での臓器移植はやめようというWHOの方向性があった。
このままでは海外での移植の道もなくなる、という関係者の深い心配が国会を動かした。

法が決定したのは本人が意思表示していなければ脳死判定、臓器移植をしてもいい、ということではなく、家族の決定に委ねるということである。

どれだけ家族が自由な意思決定ができるかという問題と、家族と本人の関係もこの意思決定に影響するであろう。
それはする、しない、どちらにも。

外からは何も言えない問題ということである。

また、
記録では100歳以上の人の行方不明が200人を超えたとか。
これが75歳以上であると万単位の数になるとか。

日本は江戸時代の寺請制度もあって戸籍は世界的にもしっかり管理されているほうの国である。
人間をそこまで細かく管理する必要があるか、という議論はあろうが、そのしっかりしているはずの記録にも大きな綻びがあるということだ。

ま、「長寿社会」なんて言って喜んでばかりいられない現実の一部が露呈したということだ。

あいかわらず道徳や倫理をもちだしてご託宣をする人間もいるようだが、そうしたものが何の効力を発揮しない現実があるということだ。

「昔はこんなことはなかった」
あたりまえだ。昔はこんな状況は全くなかったわけではないが、こんなに一般化した状況でもなかった。
昔がよくて、今が悪いわけではない。

道徳や倫理の出番は後でいいので、今はちょっと黙っていてくれたほうがいい。3面記事やワイドショーも少し黙って後ろに引っ込んでいてほしい。

「多様性」というのは、人それぞれというだけではなく、ましてや同じ家族でも違うし、同じ一人の中でも、見方によっても変わるということである。置かれた状況や心理によっても変わる。

昔「状況倫理」という言葉が流行ったことがある。(失敬、今でも斬新な考え方と言っている人がいるが)

でも、その「状況倫理」ということすら甘い、というのが今それぞれが置かれた情況なのだろう。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/