体力、気力 勝負

酷暑お見舞い申し上げます。

きょうは懸案の原稿2本、不充分ですが出しました。
さんざん遅れて迷惑をかけたものです。

「書く」という行為は、私にとっては対象を具体的に設定しています。
誰が読むかはわからないのは確かですが、それでは熱が入りません。
ですから「書く」のは体力、気力をだましだまし振り絞り、といっても本来的には「努力嫌い」ですからたいしたことはありませんが、私的にはユンケル2本飲んで書きます。

でもこのところどういう方向か、ということで少し悩んでいます。
というのは私の時代はそろそろ終焉なので、次の人への期待となり、じゃオマエさんは責任をもてるのかよ、と言われるとはなはだあやしいからです。

葬儀というと日本では仏教のことになりますが、先進国では軒並み既成宗教が元気を失っています。日本でも衰退気味なのは仏教だけではありません。
宗教という枠組みも問題ですね。
全然違うと思うのが影響しあったりしているから不思議です。
また、最近は(最近だけではないのだろうとは思うのですが)、何となく、とか、雰囲気的、とか、そうした好悪感情もあったり。
宗教というと熱心かどうかで見てしまいますが、そんな対象とはかぎらないようで。
熱心なのがいいか、と言われれば、私はそういうのは嫌いだし…。

昨日、私が前から興味をもっていたある宗教の編集者が来られて、話していましたら、私が感じていることと非常に似た佇まいで、お話をしていたら、とてもいい気分になりました。
感じている問題も似ているのです。

葬式では仏教がさんざん揶揄されていますが、別に江戸時代からずっと言われてきたわけで、その中にはいい人もいたし、ちょっとどうかという人もいたし、今さらではないのです。
その中で冷めた目が多くなったと感じるのは私だけでしょうか?

いろいろ言われると臍曲がり(そういえば子どもの頃の私のあだ名の一つが「へそまがり」でした)の私としては反抗したくなるもので、実は私より下の世代にとても気持ちがいい僧侶の方がたくさんいるのです。
富には無関係で、汚い車に乗り、姿勢が誰にも低く、だが酒には目がなく、喋るのに壁がなく、わからないことをわからないと正直に言い、情が濃く、ときどき欝になり、時には失敗もし、けっして人格者とは見られず…
そうした人、私は仲間と言いたい、そうした人がたくさんいるのです。

でもね。そうした人は教団の上には出世しないものです。

書く、といっても私はナマケモノですから、どんなテーマにも、知らないことにも格好よく言えばチャレンジ、悪く言えば素人の域を出ないことに気づこうとせず書こうとは思っていませんが、書いたもののレベルでは喧嘩もしますが、ほんとう言えば、その人間と会うと楽しいかという好き嫌いのレベルでいきたいな、と近ごろは思うのです。
書くことに不器用な人で誤解を受けるのですが、滅茶苦茶人間性がいいという人もいるのです。
思想というのは書いた上でしか判断されませんが、同時代のよさ、というのは付き合うことで人間性がわかることもあるのです。

昔、あるところに数回入りましたが同室になったのが若手のヤーさんでした(私も若かった)。その人たちの親切さ、人のよさ、私は忘れることができません。だから相撲協会の浄化運動なるものにもあまりいい感情をもてないでいるのです。
人間的付き合いでは私は今も同等に付き合いたいと思っています。残念ながら今は機会がないのですが。
どっかで「公正」さなんか信じていない私がいるのです。

なんかしょうもないことを書きました。
自分が身に合わないことをすると、ついぼやきたくなるのです。
気分を害した人がいればごめんなさい。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「体力、気力 勝負」への3件のフィードバック

  1. >実は私より下の世代にとても気持ちがいい僧侶の方がたくさんいるのです。富には無関係で、汚い車に乗り、姿勢が誰にも低く、だが酒には目がなく、喋るのに壁がなく、わからないことをわからないと正直に言い、情が濃く、ときどき欝になり、時には失敗もし、けっして人格者とは見られず…そうした人、私は仲間と言いたい、そうした人がたくさんいるのです。
    先生にとっては何気ないお言葉でも、いま非常に肩身の狭い思いをしている我々にとっては非常に心励まされる言葉でした。
    こんなこと言うと笑われるかもしれませんが、心が折れそうになる日々の連続、上の言葉を思い出して頑張ります。
    本当に本当にありがとうございました。救われました。

  2. もしかしたら、自分の事は棚に上げて一端の評論家気取りで見ていたのでは・・・と反省しました。勿論どのような職業の人の中にも、様々な考えの方がいらっしゃるのですが、揶揄する声は大きく報道発信され「そうだ、そうだ」と非難できるほど自分が人格者か??と問うてみますと、お恥ずかしい程のつまらない人間だった・・事に気がつく次第です。母方の先祖に生涯独身で仏道に精進しある宗派の本山の大僧正になられ、仏教辞典に名がある方がおられます。子供のころからその方の話をよく聞かされ、いました。私の中にある「僧侶とは・・」の原点はそこだと思っていましたので、先生のおっしゃる事がすんなりと自分に入ってきたことは少し意外だなあ・・と思いました。先生以外の人の意意見だとすんなり入るどころか、きっと反発したと思いますが・・・。コメントを見て、成る程なあ・・・と感じています。自分の物の見方の間口を広げる必要がありそうです。ありがとうございました。

  3. >でもね。そうした人は教団の上には出世しないものです。
    日本の仏教界が汚泥の沼だとしても、そこに蓮の花がひらくこともあるでしょう。白い花で満たすことはできなくとも、白蓮華を一輪、また一輪と見いだし、「見つけたよ」と周囲にそっと呟く、そんな活動をしてゆけたらと、力のないまま念じております。
    追記:SOGI誌のアンケートでM慧師がお元気でいらっしゃることを知り、嬉しく思いました。

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