葬式の布施をめぐるシンポジウム

このところ雨も降り(それも局地的な)、ようやくちょっと涼しくなりました。
だが、どうもバテ気味です。

案内したことでもあるので、9月13日に秋葉原で行われた全日本仏教会主催のシンポジウム「葬儀は誰の為に行うのか?~お布施をめぐる問題を考える~」の報告を一部しておきます。

なお、このきっかけとなったイオンのお布施の金額目安表は何度かの変遷があり、現在ではホームページから完全に撤去されています。

シンポジウムは最初に4人が15分ずつ(とてもじゃないが短い)話した後、休憩時間に参加者から集めた質問にパネラーが答える形式での討論。

パネラーは
1、最近の葬儀事情(データ解説) 石田 佳宏 (大和総研主任研究員)
2、寺檀関係の変化 中島 隆信 (慶応大学商学部教授)
3、僧侶と檀信徒の関係とは 碑文谷 創 (葬送ジャーナリスト)
4、一般の方々が納得する葬儀とは 玄侑 宗久 (芥川賞作家 僧侶)
コーディネーターは全日本仏教会事務総長の戸松義晴さん

事前に石田さん、中島さんは当日発表予定のスライド、私は原稿にして提出、参加者に配布されました。なお、私は原稿内容は15分で話せる内容ではないため、急きょスライドを作成し、話すときにそれを用いました。
玄侑さんは事前資料なしという賢明さ。

討論では石田さん、中島さんというクレバーで良識的な近代主義者と屈折した戦後派の私、玄侑さんとの対立という構図。
といってもお若い石田さんや中島さんは賢明ですから、専らこっちが異論をぶつけるという構図。
コーディネーターの戸松さんはそれに上手に割って入り、議論を進行させていました。

実は皆が不思議に思ったようですが、玄侑さんと私は初対面。
よく雑誌で原稿が並んで掲載されたりしていたので、お互いに初対面とは思えない感じ。

玄侑さんは福島県三春町の寺の住職。
三春町の葬儀社の内藤さんと私は大の仲良しなので内藤さんを介在させてよく話を聴いていました。
また、私の生地である岩手県一関と三春町は姉妹都市。
伊達政宗の妻・愛姫の出身地である三春の田村家を再興して一関藩主とした、という関係です。
なお田村家の菩提寺が樹木葬墓地を最初に始めた祥雲寺(住職は千坂さん)ということで、玄侑さんは千坂さんと親しい関係。つまりこちらも千坂さんを間に挟み、話を聴いていた関係。

よくわからないでしょうが、玄侑さんと私の間に内藤さん、千坂さんという共通の友人がいるということです。

お互いに皆から迷惑がられる喫煙者ということで、シンポジウムの前や休憩時間には1階の外の喫煙場所で一緒にタバコを吸っていました。

関係ない話が長くなりましたが、そんなこともあり、玄侑さんとは気が合いました。
石田さん、中島さんは優等生なのでしょう。
宗教であったり死だったりは学んでわかるものではない、とこっちは思っているものですから、きれいな結論のつけ方にはいささかムッとしました。
その態度は下から見ていた人たちにもバレバレだったらしい。
もっとも不快な表情を露わにしていたのは私だけで、禅僧の玄侑さんは終始落ち着いた態度。

つまり5人の中では最も年寄りの私が精神的にはいちばんガキだったという話。

会場にはお坊さんやら葬儀関係者の方が多く集まっておられました。
私の知った顔も取材マスコミを含めたくさんいました。
満員でしたが、これでは対象となった「一般の方」はどれだけおられたのだろうか、とちょっと心配。でも受付は「先着順」だったようです。

最近の若い(?)僧侶の方は器用で、当日のシンポジウムの様子はツイッターで実況中継をされていました。
http://togetter.com/li/50359

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「葬式の布施をめぐるシンポジウム」への3件のフィードバック

  1. >つまり5人の中では最も年寄りの私が精神的にはいちばんガキだったという話。
    だから血の通った葬儀論を語ってもらいたいと期待しています!

  2. ツイート最後まで読みました。案外長かった(汗
     これを見て改めて感じましたが、ここ一連のお布施問題全体を通して見られる中心的な問題は、お布施の理念・意義や金額のことではないようですね。宗教と個別の繋がりが希薄な社会(特に都市部)は葬儀や宗教の標準化を要求するのに対し、現場では個別の事情に即したケアを重要視する、この感覚の違いがメディアという舞台の上で摩擦となっているように見えます。
     現実としてそれぞれの宗教者も全国民ではなく直近の共同体に対して責を負っているわけですから、こういった議論に動揺しないように、まず直近の共同体に対して「あなた方はどうありたいと思うのか」と問いかけていく姿勢が重要なのではないかと思えます。このツイートの情報だけなら、玄侑宗久師の言が比較的自身の感性にしっくりきました。

  3. 当日会場でお話を聞かせていただいておりました。一般人の感覚と少し乖離しているなーと感じる部分が多々ありました。葬儀の相談の現場ではお布施は支払いを強制されるものとそのほとんどが感じておられるので・・・(勿論そうでない方も100人に一人位はいらっしゃいますが)地方の寺と檀家の現状が都心のそれと大いに違っていることが問題でしょうか。中島さんの料理屋で・・は思わず笑ってしまいました、一般人の発想ではないのでは・・と。先生の苛立ちが下で聞いていてはっきりわかりました。聞いてる人たちはこの場に「碑文谷さんが居てくださってよかったね」との話をされていました。死は学んでわかるものではないのですから。聞いている私はいささか消化不良でした。もっと激論が聞きたかった。

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