葬式と布施 私の意見

葬式と布施についての全日本仏教会主催のシンポジウムについて先に2回感想めいたものを書きました。

コメントをいただいたように、地方寺院の問題は大きな問題です。前にも紹介したように、都会にある住職のある意味ノホホンとしたものとは異なり、特に40代、50代の僧侶の方が強い危機感をもっています。
私がシンポジウムの席上配布した資料をそのまま掲載したほうが、私の考えについてご理解いただけるかと思います。長いですが、以下に掲載します。ご批判を歓迎します。

おそらく私の認識はまだまだ甘いものでしょう。それを承知の上、掲載します。当日に配布した資料に一切手を入れていません。討論の感想は先回のをご覧ください。

(私見) 寺院と檀信徒の現状とこれから

~葬式の「お布施」がもつ問題点~

碑文谷 創

1.問題の背景

■無縁化が進む社会

 百歳以上の方が実際にはかなり多くが行方不明になっていた、と報道されている。「長寿社会」の裏が姿を現した。今後は療養病棟から出されて受け皿となると想定された老健(老人保健施設)の拡充が進まず(特別養護老人施設はもとより)高齢者難民時代の到来が予測されている。

 そのほか誰とも認定されない行旅死亡人が1千人(年間、以下同)、縁者がいても引き取り拒否された死者が3万人というデータがNHKの「無縁社会」で報道され衝撃を与えた。推定するに、おそらく縁者に遺体が引き取られたとはいえまともに弔われず、死体処理された人が10万人はいるだろう。2007年の死亡者数は114万。死亡者数の約1割がこうした人々である。

 生活保護の葬祭扶助を受けた人は3万人、自死者は12年間3万人台を続けている。路上生活者の3割以上に知的障害があり、これらの障害者が捨てられている現実がある。

 こうした問題の先頭に立って取り組んでいる人の中に必ず僧侶の方がいる。だが、多くは無関心である。

■維持できなくなる地方寺院

 宗教的浮動層を抱え、檀信徒でない人の葬儀サービスをして「布施」という名のサービス対価の支払いを受けているのは東京をはじめとする大都市圏の問題である。

 今、地方寺院は都市化による地方の過疎化が一段と進んだために、寺院の財政的自立の危機に立たされている。

 寺院自身の自立が危ういのに、教団は賦課金をそうした寺院にも課しており、これが大きな重荷となっている寺院は少なくない。

 ある教団の地方の檀信徒大会に招かれた時、ある住職は「私は学校の教職を兼職して住職を務めてきたが、今では学校、役場、農協という過去の兼職の受け場がなくなってきており、兼職寺院は成り立たなくなってきている」と話していた。

 また、檀信徒代表は「檀家は寺の普請には責任をもつが、住職の生活費までは面倒見切られない」と話すと、数百人という満場の檀信徒から拍手喝采受けた。

 過疎地では若者が去り、残された檀家のおばあちゃんの葬式をすると、「檀家が1軒なくなった」という事態となる。

 檀家に「寺を支えよう」という意識はあるものの、経済不況、おまけに中心層が高齢者となり寺院維持のための寄進ははっきり減少傾向にある。

 無住の寺をいくつも兼務している僧侶も少なくない。檀信徒にとっては「オラガ寺」であるから、寺の合併はままならない。普請すら充分にできず荒れていく寺が少なくない。

 地方寺院の墓は無残である。放置された墓があちこちにある。

 墓の「改葬」(引越し)は確実に増えている。地方の寺の墓から都市の墓へである。都市に呼び寄せられた高齢者が地方までの墓参は困難だからと墓を移す。寺は何とか檀家として残そうとするが、それは改葬に際してより多額の礼金を得ようとしているように映る。

 最も多いのは地方の墓の放置である。幽霊檀家が多くなっている。「改葬」は都市寺院にもある。「寺が嫌い」「住職が嫌い」という理由が少なくない。「墓質」が成り立たなくなり、寺が「選ばれる時代」になってきたようだ。

■人口移動を寺はどう考えたか

 60年代からの高度経済成長に伴う都市化、つまり住民の地方から都市への移動に際し、地方寺院のとった態度はどうだったのか。

 最初は長男は残り、出て行くのは主として次・三男であったから、「長男が残ることで檀家は維持できる」と考えた。ある曹洞宗の住職の方が「長男仏教」と言った。次・三男に都市の寺を紹介するのではなく放置した。都市の寺を紹介すると「檀家をとられる」と心配したからだ。

 地方経済の疲弊もあり、今では長男すら地元から離れることが多くなった。

2.なぜ「布施」が問題になったのか?

■地方出身者が宗教的浮動層を形成した

 東京で檀家となる寺をもつ人が約5割。厳しく見れば3~4割。千葉や埼玉の周辺では従来の住民は寺と檀家関係をもっているが、今増えてきている「新住民」はそのほとんどが宗教的浮動層である。

 宗教的浮動層のほとんどは地方出身者である。地方出身者は糸が切れた凧状態にある。

 その新住民が葬式をすると、出身地の檀那寺には頼まず、葬儀社経由で僧侶を依頼する。彼らはあくまで「一見さん」である。寺の維持に責任をもとうとはしない。頼まれた僧侶も一時的関係だから、遺族の状況を聴こうとしないし、死者のことを何も知ろうとせず葬式を行って帰る人が少なくない。

都市の寺院にとっては檀信徒以外の葬式は「臨時収入」である。中には「葬式をやってやった」とカン違いして遺族に声をかけず、むしろ遺族が挨拶に来ない、と怒り出す。

イオンが葬式の「お布施」の標準価格を出して論議を呼んでいるが、こうした「標準価格」の表示は今始まったものではない。イオン以前から大手互助会と「料金協定」を結んでいる僧侶は少なくない。

 最近ではこれに僧侶派遣プロダクションが加わる。チャペル・ウエディングでは偽牧師が大多数であるが、こちらには僧籍をもつ人が少なくない。

最初は都市周辺部の次・三男が中心だったが、そして彼らが互助会、葬儀社に3割~4割のキックバックを条件に売り込んだ。

最近は地方寺院住職で、地方寺院の収入だけでは食べていけない僧侶が登録して出稼ぎするケースが目立つ。僧侶が単身都会のアパートに住み、プロダクション経由の注文に応じて葬式に出かける。彼らは腰が低く、遺族の声にも耳を傾けるので都会住職より人間的魅力があると好評である。

プロダクションは「明朗価格」を訴える。信士・信女20万円、院号居士・大姉40万円、おまけに「後からのお寺の付き合いは不要です」と断る始末である。僧侶の収入はその3~5割のようだ。

■都会の檀家-寺との関係が弱まる

 地方では関係が薄れてきたとはいえ住職と檀信徒に面識はない、ということは少ない。だが、都会の場合、住職と檀信徒が葬式で初めて顔を合わせることも少なくない。

 檀家であっても寺の維持に対する責任感がなく、そういう意味では宗教的浮動層に意識が近くなっている。頼む寺が決まっているだけで、「お金をとられる」という感覚は近いし、できたら寺との関係を薄くしていきたいと思っている。

彼らに言わせれば、「檀那寺は自分たちが選んだ寺ではない。生まれた時から決まっている」のであるから責任や愛着も薄く、信仰の関係にはない。

■布施

 民衆と寺の檀家関係は、中世末期、近世初期の戦国時代に始まり、江戸時代中期に宗門改めによって法制化された。

明治維新によって一時神仏分離政策で関係が壊れたが、1898(明治31)年の明治民法で家制度が強調されることが追い風で定着した。戦後、新民法で家制度が廃され、都市化で基盤が揺らいだ。今檀家制度は瀕死状況にある。

 寺と檀家という関係は、基本的には住職である僧侶が仏教の教えを説くという法施を行い、それを檀家は財施で応え、ともどもに宗教共同体である寺を維持していく、という関係にある。

檀家が死者を抱え危機に陥る葬式という状況では、特に僧侶の行う葬式が法施として重要な意味をもった。つまり死者を仏弟子としてあの世に送り、遺族の悲しみに配慮することによって。
 死の連絡が寺に行ったら住職はすぐ檀家の家に駆けつけ枕経をし、その後の進め方を地域の人たちと打ち合わせて段取りを決める。死者は日常よく知った檀信徒であったから、死者にふさわしい戒名(法名)を考えて授与した。死者を送るということは宗教者、遺族である檀家、地域共同体にとっても一大事だったのである。

寺は檀家の生活を知っていたし、檀家も寺を支えようとそれなりの布施をしようとしたから、「布施の額」が問題になることは少なかった。

それぞれの状況で負担する、という意味はこうだ。

例えば、ある家の年収は200万円、またある家の年収は5千万円でれば、布施は200万円の家では10万円、年収5千万円の家では250万円で実質等価である。もちろん財施はお金だけによるものではない。労働奉仕もあり得る。それぞれがそれぞれの分に応じて檀家は寺院を支えたのであり、それが「布施」としての意味である。

■「布施」を巡る不幸

ところが2つの不幸があった。

一つは戦後農地解放で寺は地主として保有していた土地を剥奪され、主要な財源を失ったことである。主要な土地持ちの檀家総代も没落した。寺は財政に窮することとなった。

もう一つは高度経済成長である。これは経済の民主化をもたらした。

それまでは院号を望めなかった人たちも平等に院号を要求し始めた。

寺院はそれまで社会階級に応じて寺院への貢献度をはかっていたものが、お金に窮し、「それ相応の金銭的貢献があれば」と取引に応じ、正式ではないが「院号料」なるものが誕生した。

事実、東京のある寺院の墓地では1965年頃を境に、それまで「信士・信女」が多数であったものが、「院号居士・大姉」が主流になっていった。

これが「お経料」「戒名(法名)料」発生の経緯であり、「布施」であるべきものの「料金」化の経緯である。「料金」であれば「安い」を望むのが消費者心理。今度は「寺の費用が高い」という声になった。

■寺の問題点

 寺が戦後の財政的な困窮を背景にしたとはいえ、仏事として葬式を行うこと、檀信徒の寺への貢献を判断し院号等を信仰的尺度で授与すべきものを、お金の高で判断するようになったことである。これは全ての寺院に当てはまることではない。地方では「戒名料」がない寺院も少なくないし、寄進の額によらず檀信徒であれば等しく院号をすべての檀信徒に授与している寺院もある。

 問題は寺だけの問題ではない。「立派」と言われる戒名(法名)を信仰抜きで金で求めた民衆の浅はかさも指摘されるべきである。ブランド品を買い漁る心理と共通したものであったように思う。

 第2に寺院が反省すべきことは、戒名(法名)が歴史的にもっていた差別性である。

歴史的に戒名が純然とした寺への信仰に基づく貢献で授与されたのではなく、社会的地位や寄進が多額であったこと等の社会階級差別を背景としたことが多かった。この点への反省が必要である。これは仏教寺院だけの問題ではないが、この負の歴史に目を瞑らないことである。

■寺の課題

①布施は寺の活動を支えるためのお金であるならば、寺院の活動を檀信徒に見える、感じるようなものとすることである。この活動はそれぞれの寺で特色があっていい。

 その寺のあり方を見て、檀信徒は「寺を支える」必要性を感じることになる。

②寺を住職だけのものから檀信徒のもの、宗教共同体にすることである。住職個人に依存すれば、その住職の限界に寺は規定される。檀信徒のもっている力を有効に活用することなく、寺の発展はない。

③寺の会計の公開である。寺は言うまでもなく住職の個人財産ではなく、宗教法人である。

今財政的に自立できている寺院は全国7万7千カ寺の3割程度だろう。むしろ公開したほうが檀信徒は寺に責任をもつし、寺を信頼するだろう。

④僧侶が葬式に携わるならば、死とは何か、それは家族に何をもたらすか、きちんと僧侶養成プログラムに入れて、葬式への取り組み姿勢を学習させる必要がある。遺族のグリーフへの認識もなく、生業として惰性的に葬式に係わってはいけない。

 また、檀信徒、僧侶に葬式を依頼する人も、もっと真剣に死に向き合う必要がある。かけがえのない家族を送ること、それは固有のいのちに向き合う一大事である。安易な死体処理モードで行うべきではない。僧侶が葬式をするのは、社会的形式や体裁を整えるためではなく、仏弟子として送るという寺の重要な仏事としてある。

⑤寺として反省すべきことは少なくない。

 葬儀会館で遺族が挨拶に来ないと怒った僧侶がいる。なぜ自ら足を運ばないのか。自死者の葬式で「自死はいけない」という法話をした僧侶、ゴルフの予定があり火葬場へついていかなかった僧侶、葬儀会館で「ご本尊がない」と葬儀社に不手際のように怒った僧侶。それほど大事な本尊をなぜ自らもっていかないのか。仏事には寺が責任をもたないでどうする。

⑥寺院の中で高い利益をあげているのは一部にすぎない。多くは困窮している。それなのに「高い」「お金をとられる」と言われるのは、寺院の財政基盤が葬式に偏り、不況ということもあり、檀信徒の負担が重くなってきていることもある。寺院経済の葬式・法事への依存度を低めること。恒常的な財源確保の策を見つけること。

⑦寺院の開放性を高めること。物騒とはいえ、門は閉まり、人が来ることを拒否しているかのような寺院の何と多いことか。

⑧寺と寺の協働である。一つは地方と都市の寺の協働であり、もう一つは地域の寺同士の協働である。地方寺院と都市寺院が協働しないと都市の宗教的浮動層は増える一方、地方寺院は疲弊する一方である。地域の寺同士がネットワークを組むことで、寺の意識も開かれるし、単独ではできない催しもできるし、住職の交代休暇も可能となる。

⑨過疎化地域への派遣制度である。住職を支えられない寺をグループ化して教団の責任で僧侶を一定期間、交代で派遣する。できれば初任の僧侶に過疎地赴任を義務づける。そして大規模寺院を世襲のものと私物化せず大胆な人材抜擢をはかることである。

 世襲制が寺院維持に貢献した面は確かにあるが、弊害をもたらし、自覚のない大規模寺院の後継僧侶が贅沢三昧していることが批判を呼んでいる。僧侶間の経済格差は凄まじい。

■布施を料金にしているのは誰か

 一つは信仰もないのに葬式・仏事を依頼してくる「消費者」の存在である。できるだけ安く、「立派」と言われる戒名をほしがることである。

 もう一つは、仏式葬儀の減少、檀家の高齢化、減少を背景に寺収入が減少していることである。

このため地域の僧侶が談合して布施の釣り上げを画策することがある。地方都市では檀家は住職の指示に従わざるをえないが、これでどれだけ寺への信頼感をなくしたことか。

寺の財政が厳しければ、檀信徒に説明をし、協力要請をすることが第一であろう。それを僧侶が裏で根回しして葬式の礼金の引き上げを行っていて「料金ではない」と抗弁することが空しくないだろうか。

 また、もっと檀信徒を知る必要がある。檀信徒の生活レベルでは困難な金額を要求してはならない。

 檀信徒や僧侶を依頼する人も葬式をしてもらうならば、もっといい意味で僧侶を利用し、それぞれの分に応じてでいいが、感謝の心を示す必要があるだろう。

ある僧侶が「お気持ちで」と応じたら、「お布施」と書かれた封筒に5千円札1枚入っていたという話もある。生活が困窮している人の話ではない。生活に困窮した人が、なけなしの1万円札を出すなら、心ある僧侶はそれを尊いお布施としていただくだろう。

よく「金額が不明瞭」と言われるが、個々の事情を無視して一定金額を要求するのはビジネスであって宗教行為ではない。

■教団の責任

 過疎寺院の問題を含め、個々の寺院で解決できない問題があるのに、教団は教団政治や行事にだけ目を向け、寺院の抱える問題に対処しようとしていないかのようである。

多くの場合、僧侶の役職は、あくまで個人的栄誉であって教団全体への責任としては認識されていない。だから心ある僧侶は、教団に期待することを既に断念している。

 実際には、個々の僧侶はさまざまな活動をしている。僧侶だからできる活動もある。しかし、これを共有する仕組みが教団には見られない。

3.葬式の危機

■9割を切った仏式葬儀

 仏式葬儀は長く95%前後を推移してきた。しかし2007年の日本消費者協会調査ではじめて89.5%と9割を切った。仏式葬儀が当たり前でない時代がすぐそこにきている。

 新年の教団トップの談話を見ていると「宗教教育がない」「経済至上主義がよくない」という外向けの批判はあっても「寺」自体への反省はほとんどない。寺は他の力で変わるのではなく、自ら変わろうとしないでは変わるわけがない。

 地方では、4050代の僧侶の危機意識が強い。生き残れるか、と真剣に心配している。仏教界の問題意識格差、経済格差の解消、寺はどこに行こうとしているのか、社会における存在意味を確認しないと、そのうち社会から放置され、次第に姿を消してしまうのではないか、と懸念している。

 95年頃より日本の葬式は共同体から離れ私事化した。その背景にあるのは経済不況もあるが、団塊世代を中心とした戦後世代が喪主の中心層となったからである。また、各種の意識調査を見ると、伝統的意識離れを言われた60代戦後世代に比べても40代以降の世代感覚はさらに大きく隔たっている。若い僧侶が「寺に葬式を頼むのか?」と心配するのも根拠がないわけではない。

■弔うこと

 また安易な宗教離れは、死にきちんと正面から向き合う機会を奪う可能性がある。「無宗教葬」「自由葬」がその人の信念で行われるならは少しも非難されるべきことではない。しかし葬式が単なるファッションになってはいけないだろう。

日本仏教が中世末期・近世初頭の戦国時代に民衆の中に入り、民衆の支持を受けたのは、家族、近親者の死という危機にあって、その死者の存在を尊いものとして受け止め、共に送り、葬る作業を僧侶が行ったからである。現代的な表現をするならば、どんないのちにも意味があり、価値があり、尊ばれるべき、人格をもった存在として位置づけ、そのいのちの喪失の厳しさ、辛さ、悲しさに共感したからである。これがそのまま葬式の本質である。

「葬式仏教」と言われるのは恥ずべきことではない。人の生死に係わるというのは並大抵のことではないからだ。しかし、その現場に固着するならば、死後だけではなく、生きているときからの関係が重要だということも見えてくるはずである。

 葬式を執り行う僧侶(僧侶に限らない宗教者)を信頼できないで安心を託すことはできない。また、そうであるなら宗教者は不要である。「葬式を託される」というのは宗教者にとって名誉である。信頼されているということの究極表現だからだ。

 宗教者は信頼されるように人間関係を築き、檀信徒、僧侶に葬式を依頼しようとする人は信頼できる宗教者をさがし、その人間関係を大切に育む必要がある。それはけっして「偉いお坊さん」という意味ではない。

 今、社会で「死」が軽くなり、冷淡視されるようになったのは、生前のその人を囲む関係が希薄になってきているからだ。死者を忌む前に高齢者を忌むようになり、その死の看取りが家族の中でも共有されなくなってきている。無縁化は家族内で始まっている。

 弔い方は多様であっていい。お金をかければいいわけではない、というのはバブル景気の崩壊で学んだ教訓である。

 しかし弔われることがない死者は不幸であり、弔うべき人がいるのに弔うことをしない人もまた不幸である。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「葬式と布施 私の意見」への12件のフィードバック

  1. 私のような面識のない僧侶にまで、真摯な対応をしていただき大変ありがたく思います。少し大人気ないコメントを残してしまい反省しております。今回はそれだけ言いたくてコメントさせていただきました。僧侶が人を救うのではなく、信者さんから救われる僧侶もいるのですね。まさに僧宝が宝と歴史的に称されてきたのは、先生のような温かく我々を見守って下さる信者さまからの布施行のたまものだと思えました。とても心温まる布施(対応)をいただけたことに感謝もうしあげます。少し頭を冷やしてからお返事させていただければと思います。この度は本当にお騒がせしました。

  2. >問題は寺だけの問題ではない。「立派」と言われる戒名(法名)を信仰抜きで金で求めた民衆の浅はかさも指摘されるべきである。ブランド品を買い漁る心理と共通したものであったように思う。
    浅はかであっても、金銭の余裕もあり「孝」の気持ちがあればそれも信仰。浅はかな信仰も信仰の内。そして案外日本人的とも言えそうな気もします。
    問題とすべきは、「浅はかな民衆」を自らの欲のために導く人もいる点。
    >一つは信仰もないのに葬式・仏事を依頼してくる「消費者」の存在である。できるだけ安く、「立派」と言われる戒名をほしがることである。
    上記と同じ問題意識を持ちます。葬儀を出す以上何らかの信仰があるのではないかと思えるのです。消費者も葬儀の場では何らかの信仰者でもある。
    問題とすべきは、立派な戒名が良いと導く人もいる点。
    >「無宗教葬」「自由葬」がその人の信念で行われるならは少しも非難されるべきことではない。しかし葬式が単なるファッションになってはいけないだろう。
    単なるファッションではいけないでしょうね。しかし、無宗教葬に見えても儀式を行なう以上なんらかの宗教性があるのではいかと思われて仕方がありません。
    問題とすべきは、ファッションへ導く人もいる点。
    >社会で「死」が軽くなり、冷淡視されるようになったのは、生前のその人を囲む関係が希薄になってきているからだ。
    社会が他人の「生」を軽くみるようになっていることの裏返しとも言えそうですね。
    「時間は金」であれば、サービスも有料となるでしょう。すべての基準が金であれば、「生」も軽くなりそうです。
    >「葬式仏教」と言われるのは恥ずべきことではない。人の生死に係わるというのは並大抵のことではないからだ。しかし、その現場に固着するならば、死後だけではなく、生きているときからの関係が重要だということも見えてくるはずである。
    葬式仏教は、人の死にしか関わっていませんね。
    後半の重要性は、難問です。大事なのに方向性が定まらない。
    >弔われることがない死者は不幸であり、弔うべき人がいるのに弔うことをしない人もまた不幸である。
    「葬儀の場」は人生の最終の一点に過ぎません。だからこそ大事だとは言えそうですが、この一点が寂しいために、死者を不幸とするのはどうでしょう。
    少子高齢化の時代、このような死は常にあるかと思われます。一考したいところです。
    「死」とは何か?
    浅はかな信仰者であり、消費者でもある私自身が勉強し、考えなければならない。
    浅はかな信仰者である私は仏式葬儀をしても純然たる仏教者ではなく、従って布施は文字通りお布施と考えるのが半分、料金と考えるのが半分というところでしょうか。
    「葬式と布施」という表題には直接関係しませんが、気になった点を挙げてみました。

  3. 蜆さま
    いつもながらの鋭い突っ込みありがとうございます。
    個々の事例は他からは判断できません。いろんな事情が個々にはあります。
    しかし、現在のような流れについては言っておきたいことがあります。個別は別として。
    流行というのは空気みたいなもので、あるとき流れが変わるときがあるように思います。昨日の常識がきょうの常識ではなくなったような。
    私はこれからの時代、あんまり楽観的にはとらえていません。コンセンサスというのは圧迫する空気みたいに、いやな人間は早くなくなれ!と思うのですが、ある日目が覚めたらそのコンセンサスという空気がいやに軽いものになり、抵抗する自分の気力も萎えるような。多様化の時代というのは何でもあり、で軸を失うことですから、なんか「自由」も力を失うような。
    あえて「僕らの時代」と言わせてもらえれば、時代の空気に頭をゴシゴシ押し付けて、手を払いのけ続けたつもりでしたが、今の時代、結局俺は何をしていたんだろう、という気持ちにもなります。

  4. いまある問題点を多角的にあぶり出していただき、とても啓発されました。
    どこから手をつけてよいのやら、で最初にくる矛盾。
    「よい僧侶」であればあるほど、自坊の壇徒や地域住民との活動で手一杯であること(むろん全国的に力を発揮されている僧侶もいらっしゃいますが)。
    まじめな僧侶であればあるほど、イチゲンで紹介された人の葬儀は「思いをこめて送れないし、遠ければのちの法要にも出かけられないから気分がよろしくない」という声も高いこと(元来、ほんの15分でも、たとえば炉前で形だけの読経を依頼するような葬儀を軽視しようとする人を教化することは、可能だとは思いますが)。
    だから、“いい僧侶”が“菩提寺を欲している人”たちと巡り合えないのだということを、2年かかわった某会の活動を通じて痛感しました。
    いま私自身は、生前から僧侶と仏教ファン(<あえて使いました)が集えるような場を提供していける仕組みについて考えてゆきたいと思っています。
    写経に癒しを求めるような若い人から、相続を考えはじめた中高年のかたまで、ひとりでも多くのかたが“生と死”に向き合い、「うち棄てられる死」が少しでも減るよう、各方面つながり、手をさしのべあうべき時機であると感じます。
    イオンについても、都市部では批判的に対峙すべきかもしれません(下請け的流れ作業が蔓延しては困るという意味あいで)。しかしながら、地域によっては互助会の息のかかった葬儀社が地域の葬儀大半を請け負い、他社を選びづらい場面もあると最近知りました。こうした地域には、イオン経由で全国的な質とサービスの葬儀が流入することで、功を奏することもあるのではないかと感じています。
    なんにせよ、映画『おくりびと』でモックン演じる納棺師がそうであったように、僧侶は(しいていえば僧侶であれ葬儀社の社員であれ)、「たった15分で、送る気持ちとは何ぞや、ということを伝えることはできる!」のだから、葬儀を“省略化”してしまった人の前でこそ、丁寧に送ることを身をもっておこなっていただきたいと願うのです。
    ※追記 「SOGI」誌のアンケートでM村禅師がお元気でいらっしゃることを知り、嬉しく思いました。

  5. そうですね。そうおもいます。
     >弔われることがない死者は不幸であり、弔うべき人がいるのに弔うことをしない人もまた不幸である
    歓迎され、待ち焦がれ、この世に生を受け・・その人生を終えたときに誰もいなければ・・やはり寂しいだろうな・・。また、弔う機会を自ら逸した場合もやっぱり寂しい。
    葬式仏教・・。今、核家族化して、自宅に仏壇が無い家が多いと聞く。そんな時代だからこそ・・大切な人の死を通してその人の生にふれる・・想いを共有できれば・・そんな時にちょっと法話が聞ければ・・。
     私の住んでいる地域には頑張っている宗教者がたくさんいます。そんな人たちと場を同じくできるだけでも、報われます。営利で動く人ばかりでは無いと信じます。そして、消費者も学ぶべきでしょうね。業者はもっと情報を公開し場を提供するべきです。メディアも報道する内容にもっと責任を持ち、特定するべきだ。あたかもそれが全てであるような報道は控えるべきではないか。なにかに、つけそう思います。

  6. 私へのコメントに対するご返事ありがとうございます。
    (「ご返事」か「お返事」のどちらが正しいかはネット調べによります)
    >流行というのは空気みたいなもので、あるとき流れが変わるときがあるように思います。昨日の常識がきょうの常識ではなくなったような。
    この空気、ただ漂っているのではないですね。葬儀に関しては、葬儀にたずさわったひとり一人の想いがいつしか大きな流れになるのでしょう。
    私は、先生の初期の著作に動かされブログを始めました。今はその深さに少し後悔しています。
    >多様化の時代というのは何でもあり、で軸を失うことですから、なんか「自由」も力を失うような。
    自由は個々を問題にしますから、集団としての軸は揺らぎます。先生の初期の著作はこの揺らぎを生じさせていました。他の皆がしているから、マナーだから、しきたりだから、などに疑問を生じさせていただきました。自分への回帰です。他者の本を読むときも自分の納得(感情を含む)を中心におくようになりました。おそらく「自由」とはこれをいうのだと思っています。
    >ある日目が覚めたらそのコンセンサスという空気がいやに軽いものになり、抵抗する自分の気力も萎えるような。
    「葬儀概論」が葬儀社の終着点のような(最高資格をとって一人前?)風潮になっているようにも見受けられます。(葬祭ディレクター資格のこと)
    「葬祭ディレクターとは何か」の部分を重視すれば、葬儀と僧侶との関係も変わってきておかしくはないのですがいかがでしょう?かすかに僧侶なしの直葬という形で増えているのを兆候とすべきかもしれません。(私には「直葬」「散骨」も日本人の心根に根ざす宗教観を表していると思えてなりません。仏教でもなく儒教でもなく神道でもなく…そんなものが意識されるずっと以前からの何ものかがあるように思われるのです。)
    ーーーーーーーーーーーーーーー
    >歓迎され、待ち焦がれ、この世に生を受け・・その人生を終えたときに誰もいなければ・・やはり寂しいだろうな・・。また、弔う機会を自ら逸した場合もやっぱり寂しい。
    私には苛立ちをおぼえる一文です。
    死とその後の一瞬間。私は様々な思い出と共に去るのでしょう。人生を共にしない方にこのように思われるのが、寂しい。
    私の死の場にいない人や、私の死を知らないままの人の中にも私の思い出は残っているはずだし、私の前に、私の知らない間に死んでしまった人も思い出の中に私は元気な私が生きてていたはずなのにです。
    葬儀が死の受容の場であるというのは、いつの場合も本当ではありません。
    葬儀が社会的な意義を持つというのも、いつの場合も本当ではありません。
    ーーーーーーーーーーーーーーー
    >個々の事例は他からは判断できません。
    かみ締めたい一文です。

  7. 少し私なりに・・・。以前、身の程知らずに蜆様に反論?しまた。その答えにたじろぎ思うように、字が打ち込めなくて・・悶々としてました。
    >歓迎され、待ち焦がれ、この世に生を受け・・その人生を終えたときに誰もいなければ・・やはり寂しいだろうな・・。また、弔う機会を自ら逸した場合もやっぱり寂しい。
    これは、正直な私の想いであり、強制するものではありません。事実この田舎でさえ亡くなられて数日後に、発見され、私たちがお世話をすることがあります。身寄りがいらっしゃらないので、お寺さまと、担当者、手すきの社員でお見送り。
    一方は、家族に看取られ甥姪孫ひ孫に至るまで勢揃いでのお見送り。
    やっぱり、さみしいだろうな・・。
    みんなに見送ってもらってよかったね・・。
    と、仏様にむかって手を合わせながら語りかけたりしてます。
    私事ですが・・。昨年10月に大変にお世話になった方の葬儀に出そびれて・・今だ、その人の顔を想い浮かべながらお詫びをしてる次第です。
    それは、人はけっして一人では生きられないと思うからです。何らかの形で関わっている。
    その関わりを共有するからこそ葬儀があるのではないかと思うのですが。
     蜆様 駄文で不快な思いをさせて申し訳なく思っています。もっとうまくお伝えできるといいのですが・・・。

  8. >蜆様 駄文で不快な思いをさせて申し訳なく思っています。
    無用の心遣いです。私自身葬儀に関して確たる意見があるわけではありません。いろんな本を読んで視点を増やしたいだけです。
    umezho 様の暖かいお心は文面より十分伝わっています。
    実は、「寂しい」というのは、私自身の「正直な私の感想」でもあります。
    他の葬儀との比較をすれば、確かに「寂しい」ものです。
    私の苛立ちは私自身へのものです。従って自分の意見に入れないようにしています。伝統的な葬儀や他者の賑やかな葬儀と比較しての感想を持ち込んで良いのだろうか?ということでした。
    見送りは誰もしないより、1人でも。
    1人より数人、数人より数10人、数10人より数100人の方が故人は浮かばれるという発想に繋がります。反面少ない方はいつも「寂しい」。
    生前の価値観が死とそれに繋がる儀式に受け継がれてよいのか。
    見送る人の人数、祭壇に飾るお花や、祭壇の立派さの差についても言えます。
    常に、外面での比較の上にあります。死が誰にでも等しく訪れる平等性や故人への配慮が疎外されているように思えます。
    最近の戒名批判もこれと軌を一にします。
    生前の富貴が死後の名前に持ち越され、お墓にまで刻まれます。
    ユダヤ教では生前の富貴が葬儀に現れないように、「質素」を旨とし、供花も受け付けないというのもあるようです。この姿勢も考慮に入れたいと思っています。
    >昨年10月に大変にお世話になった方の葬儀に出そびれて・・今だ、その人の顔を想い浮かべながらお詫びをしてる次第です。
    >それは、人はけっして一人では生きられないと思うからです。何らかの形で関わっている。
    >その関わりを共有するからこそ葬儀があるのではないかと思うのですが。
    葬儀というものの価値について、人それぞれに考えがあるのでしょうね。
    父の葬儀に来れなかったという女性が、数年後、母に電話があり、線香をあげさせて欲しいと言ってきたのもありました。その気持ちだけで十分な気がします。

  9. 管理人様
    >いやな人間は早くなくなれ!と思うのですが
    「祈り」の裏側にくっついた「呪い」も葬儀におけるテーマの1つとして考えたいと思います。

  10. 蜆さん
    今の情況がもっている課題は
    自立できない高齢者を家族も社会も支えられない
    とする気持ちがあるのでしょう。
    親を遺棄した者は、ただ遺棄したのではなく、全生活を犠牲にして介護してきたが、その結果、「このままでは自分が壊れる」と思ってしまった、とか。
    これを非難できる人がいるでしょうか。
    私が「おそらく死亡者の1割程度は弔われない者」と書くのは、断罪しているのではないのです。
    そうせざるを得ない社会を立て直すなどというのは身の程知らない発言=無責任な発言になります。
    こうした問題を具体的に考えていかないといけない、というだけです。
    そういう意味ではさまざまな呪詛があり、そういう存在を切り捨てている部分があるわけです。
    最近の研究によれば、仏教の民衆化がなされた社会背景に大規模な飢饉があった、ということも指摘されています。
    そうであるならば、宗教はこの世にある限り民衆の呪詛を背負わなければならないのでしょう。

  11. >親を遺棄した者は、ただ遺棄したのではなく、全生活を犠牲にして介護してきたが、その結果、「このままでは自分が壊れる」と思ってしまった、とか。
    これを非難できる人がいるでしょうか。
    >さまざまな呪詛があり、そういう存在を切り捨てている部分があるわけです。
    >宗教はこの世にある限り民衆の呪詛を背負わなければならないのでしょう。
    嬉しいご指摘であり、同意します。
    葬儀を故人への悼みの場としか捉えられない風潮には疑問がありますが、昨今の葬儀批判もここに同意するものだと考えています。

  12. umezho様
    万葉集に下記の歌がありました。
    時代が離れているので一概に話せませんがここでの「あはれ」には、「寂しい」という意味合いもありそうですね。古代から…
    万葉集3巻415
    上宮聖徳太子が竹原井にお出かけになった時に、竜田山の死人を見て悲しんでお作りになった歌
    家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
    (家にいたならば妻の手を枕にすることであろうに。旅先で倒れておいでになるこの旅人よ、ああ。)

コメントは受け付けていません。